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草木と生きた日本人 笹 篠
一、序
自露は わきても置かじ をみなへし 心からにや 色の染むらん
(白露は分けへだてをして置くこともありますまい。女郎花は、自分の心から美しい色に染まつてゐるのでせうか)
前回、終はりの方で『紫式部日記』に収められた彼女の歌を紹介しました。
女郎花 盛さかりの色を 見みるからに 露の分きける 身こそ知しらるれ
(女郎花の朝露に美しく映える盛りのころの花の色を見たばかりに、露が分けへだてた我が身のことが、つくづくと思ひ知られることです)
冒頭の歌は、式部の歌に対する藤原道長の返歌です。女性の美しさは、自らの心の持ち方次第ですよ、と返してゐます。
前回のお話しは、季節外れのをみなへしでした。
いよいよ師走になりました。街を歩く人の服が厚くなり、吹く風もますます寒くなつてきました。寒さも増し、野に目を向けると、草木の色付きも残つてはゐますが、枯れて、散り、寂しさが感じられませう。もちろん、冬になれば草木に関する歌も減ります。当然ですね。
さうした中で、今回は、笹、または篠について学んでいきませう。
二、笹と篠
いつものやうに、『日本国語大辞典』で笹を見てみませう。
「イネ科のタケ属で小形のものの総称。一稔性植物で、高さ〇・二~〇・六メートル。根茎は地中を横にはう。稈は細長い中空の円柱形で節がある。葉は先のとがった狭長楕円形で基部は鞘となって稈を包む。タケに対してふつう稈がのびきるまで竹の子の皮が落ちない。稈はパルプにしたり種々の家具や器具をつくったりする。葉は防腐作用があり、粽や鮨、和菓子を包むのに用いる。東アジア、特に日本には、各地に広く分布し、クマザサ、チシマザサ、チマキザサ、ミヤコザサなど種類も多く、しばしば観賞用に庭に植えられる。笹草。」
とあります。文中の一稔性植物とは、同じく『日本国語大辞典』によれば、「 高等植物のうち、その生存中、ただ一度だけ花をつけ実を結び、そして枯死する植物の総称。狭義には、このような性質をもった多年生植物だけをさす。竹類、リュウゼツランなど。一巡植物。」とあります。
次に、篠を見てみませう。
「稈が細く、群がって生える竹類。篠の小笹。篠竹。しぬ。しのべ。」
とあります。笹と篠、両者は違ひ明らかでありません。『古事記』によりますと、「天の香山の小竹葉を手草に結ひて…(小竹を訓みて佐々(ササ)といふ)」とあり、また『日本書紀』には「篠は小竹なり。これをば斯奴(しの)といふ」とありますやうに、小竹を笹とも篠とも読むことができます。
また、笹といふと「笹の才蔵」こと可児才蔵吉長を想起される方もをられませう。七夕には笹飾りがされますし、古来から救荒食物として食べられてきました。笹の葉には抗菌物質として、安息香酸やビタミンKが含まれてゐます。
三、柿本人麻呂と笹の葉
『万葉集』で、もつとも優れた歌人といへば、柿本人麻呂といつて反対する人はまづゐないでせう。しかし、その経歴は謎に包まれてゐます。彼の来歴はまつたくわかつてゐませんし、信用できる史料は『万葉集』以外ありません。
一応、『大日本史』列伝に記された、彼に関する記述を見てみませう。私なりに現代語に訳してみました。
「柿本人麻呂の先祖は天足彦国押人命で、持統・文武天皇に仕へましたが、官位などはわかりません。素晴らしい歌を作り、後には歌聖と称されました。長・新田部・高市の諸皇子の知遇をたまひ、紀伊、伊勢、雷岳、吉野での行幸に参列し、近江、石見、筑紫の諸国に行きました。行く先々で歌を詠みました。石見で亡くなり、墓は大和の添郡にあります。」
さて、素晴らしい歌、原文の訳は「妙なる和歌」を作つた人麻呂ですが、彼の歌の中でもつとも私が優れてゐるの考へてゐるのが「石見相聞歌」です。この歌は長歌で、石見国に残してきた妻を、都に帰る途上で思ひ出して歌にしたものです。紙面の都合で長歌は割愛します。
反歌を見てみませう。
石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか(『万葉集』巻二・一三二)
(石見の高角山の木の間より、私の振る袖を妻は見てゐてくれるだらうか)
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば(巻二・一三三)
(笹の葉が山をさやさやとさやぐやうに、私は妻を思ふ。別れが来てしまつたので)
注目すべきは二首目です。ここに、「笹の葉」がはつきりと詠まれてゐますね。前の歌では、自身の袖を振る行為を、妻が見てゐるかどうかを気にしてゐます。そして、二首目は自身の心情を「笹の葉が山全体をさやぐ」と例へて表現してゐます。視覚に「笹の葉」が現れ、聴覚で「山全体にさやぐ」様子が描かれてゐます。笹の葉は、人麻呂にとつて悲しみを表現する道具でありました。
四、『万葉集』の篠
人麻呂の四十五番歌には、「…み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 篠を押しなべ 草枕 旅やどりせす 古へ思ひて」とあります。ここに篠が出てきます。
今回は、『万葉集』巻七から次の二首を見てみませう。
かくしてや なほや老いなむ み雪降る 大荒木野の しのにあらなくに (巻七・一三四九)
(このやうにしてやはり老いて行くのでせうか。雪の降る大荒木野のしのでもないのに)
近江のや 矢橋のしのを 矢はがずて まことありえむや 恋しきものを (巻七・一三五〇)
(近江の、あの矢橋に生えてるしのを矢に作らないでゐられようか。こんなにも恋しいのに)
二首共に篠が詠まれてゐます。前者は女性の立場の歌です。大荒木野は奈良県の五条のあたりといはれてゐます。
後者は、近江国、現在の滋賀県です。瀬田の矢橋といふ説があります。篠に羽をつけて矢にするのですが、これは男性が女性を自分のものとすることの例へです。この歌、人麻呂の「石見のや」を真似てゐるやうな感じがしますね。
さらに巻の七には、「草を詠む」と題して次のやうな歌が収められてゐます。
妹らがり わが通ひ路の しの薄 われし通へば なびけしの原 (巻七・一一二一)
(妻のもとに私が通つて行く道に生えるしの、そして薄よ。私が通ふのだからなびけしの原よ)
なんとも勇ましい歌です。「しの薄」は篠や薄の群がつて生えてゐるところです。『古今和歌集』詠み人知らずの歌に、
わぎもこに 逢坂山の 篠薄 穂には出でず 恋ひわたるかな
とあります。この時代から、恋の思ひが表れる「穂に出づ」の序詞として使はれることが多くなりました。
「しの原」は、篠の生える原としてとらへるものと、具体的な地名としてとらへるものとで別れます。
この一一二一番歌も、人麻呂のそれによく似てゐる箇所があります。それは結句、「なびけしの原」です。先ほど挙げました「石見相聞歌」ですが、その結句は「妹が門見む なびけこの山」です。もしかしたら、人麻呂の歌を真似したのかも知れませんね。
さて、古へ人はたびたび草木に自身の心情を重ね、例へてきました。苦しみも、喜びも。古へ人のかたはらには、常に草木があり、草木と共に生きてきたのでした。
先日、久しぶりに高尾山へ行きました。山を登る途中、道のかたはらに生える笹を見て、人麻呂の「みやまもさやにさやぐ」気持ちを思ひ出したのでした。言葉と心で古へ人につながる楽しさは、他にかへがたきものがあります。