草木と生きた日本人 桜 下
一、序
桜花 時は過ぎねど 見る人の 恋の盛りと 今し散るらむ (『万葉集』巻十・一八五五)
(桜の花はまだ散る時期ではありませんが、見る人の恋しさの盛りが今だと知つてゐて散るのでせうか)
前回のお話しでは、万葉の時代における桜の花について述べました。
高橋虫麻呂、そして若宮鮎麻呂らの素敵な歌は、今なほ私どもに共感をもたらしませう。
今年も桜の花は咲き、隅田川の川辺や京都の円山公園など桜の名所でその美しさを楽しみ、心を癒される方もをられませう。また、このお話しが皆さまの御目に触れる頃、桜の花も少しずつ空に舞ひ、地に落ちて行くことでせう。
今回は、時代を進めて平安時代、江戸時代、さらには現代にまで桜の花を愛した先祖について見ていきませう。
二、平安時代と桜
在原業平といへば、平安時代を代表する歌人の一人です。彼には次の歌が伝はつてゐます。
世の中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどけからまし
(世の中にまつたく桜の花がなかつたならば、春を過ごす人たちの心はおだやかでゐられるでせうに)
また、同じ時代の紀友則には、
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
(日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花が散るのでせう)
といふ歌があります。前者は春を過ごす人の心を歌ひ、後者は桜の花自体の心を歌つてゐます。両者に共通するのは、「のど」かではないこと、「しづ心」のないことです。それほどまでに、桜は愛されてゐたのです。
その美しさを愛でる気持ちは、万葉の時代と変はらず、しかし表現はより洗練されたでせう。
さらに時代は下り、紫式部によつて『源氏物語』が書かれました。『源氏物語』中の登場人物の一人、紫の上は、桜の美しさにたとへられてゐます。『源氏物語』で主要な女性たちは花にたとへられてゐますが、桜の花は当時において代表的な花となつてゐました。ゆゑに、その桜の花にたとへることは最大級の賛め言葉でした。平安時代には、花といへば「桜」となつてゐたのでした。
『源氏物語』と同じ頃、伊勢大輔は次の歌を作りました。
いにしへの 奈良のみやこの 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
(遠い遠い昔の奈良の古都で咲いた八重桜が、今日は九重(すなはち宮中)で美しく咲きましたネエ)
『詞歌和歌集』の詞書によると、「一条天皇の御代に奈良の八重桜が宮中に献上された折、この花を題にして歌を詠めと命じられて、中宮彰子の前で即興で詠んだ」とあります。ちなみに、この時に八重桜を受け取る役目を伊勢大輔は、紫式部から譲られたさうです。
「いにしへ」と「けふ」、「八重」と「九重」の対比が当意即妙で詠まれてゐます。巧みにして美しい歌ですね。
なほ、この歌でいふ「にほひ」は嗅覚ではなく視覚の意味で用ゐられてゐます。に、は「丹」で赤い色のこと。ほ、は「秀」で優れてゐるといふ意味です。
さらに時代が下り、鎌倉時代のはじめ頃。『山家集』を残した西行は、入滅の直前に次の歌を詠みました。
ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃
(私の願ひは、桜の花の下で、春に死にたい。その陰暦二月の満月の頃に)
西行は、源頼朝に弓馬の道を説く剛勇の士でした。そして、文治六年の二月十六日、その願ひのとほり、入滅しました。奇しくもその日は、釈迦入滅の翌日でした。
国史学者の平泉澄先生はその御著書『芭蕉の俤』(錦正社)の中で、
今西行が、辞世の時を選んで、きさらぎのもちづきを採つてゐるのは、釈迦涅槃の日にゆかりを求めようとしたのであらうが、同時に其の生涯を決定した彼のまぼろしの佳人の、忘るる間なき想出が月明の夜であつた事を思ひ合せなければならぬ。単なる往生希求の歌としては、ここに現れてゐる言葉は、余りに花やかである。絢爛たる最期といはねばならない。これ即ちその一生は、美の女神に捧げられたからである。美の女神に仕へたる人の最後は、枯淡空寂であつてはならないと同様に、その歿後のとぶらひも亦、花やかでなければならぬ。それ故に西行は
仏には さくらの花を たてまつれ わがのちの世を 人とぶらはば
と歌つたのである。西行の初一念は、七十三歳にして目を閉づる時まで少しも変らず、実に其の生涯を貫き通したのである(平泉澄先生『芭蕉の俤』錦正社)。
と記され、西行を評価されてゐます。彼もまた桜の花を愛したのでした。
三、江戸時代の桜の花
江戸時代になると国学の研究が盛んになります。さうした中で、『古事記伝』や『うひ山ふみ』などを著した本居宣長には次の歌があります。
敷島の やまと心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花
この歌はよく知られてをり、彼が自ら描いた肖像画の讃に書かれました。いふまでもなく、宣長も桜を愛しました。そして、彼の山室山の奥津城には、山桜の木が一本植ゑられてゐます。
この時代になると、桜の花が日本国民の精神性や道徳、品性の領域まで高められたのです。
かうした桜を自身の生き方に重ねる考へに従つた人物に、佐久良東雄がゐます。彼は文化八年三月二十一日、新暦にして五月十三日に常陸国新治郡浦須村(現在の石岡市)に生まれました。その旧宅が現在も残つてゐます。九歳で出家し、万葉法師と呼ばれた康哉の弟子となり十五歳で良哉と法名を改めます。彼は康哉のもとで『万葉集』を学びました。
天保十二年三十一歳の春に還俗し、その時に名を佐久良東雄と改めました。佐久良といふのはいふまでもなく桜のことです。平泉澄先生によると、「純粋日本精神に立ちかへる時、人は桜の花を想起せずにはゐられない(『武士道の神髄』)」といはれます。
彼には桜の花を詠んだ歌が沢山ありますが、平泉澄先生が特に優れてゐるとされるのが、
事しあらば わが大皇の 大御ため 人もかくこそ 散るべかりけれ
(一大事があれば、天皇の御為に、桜の花のやうに散るのが良いことよ)
といふ一首です。このお歌は桜の花の散るのを見て詠んだお歌ですが、平泉澄先生によれば、「花の散り際のいさぎよさを見て感嘆に堪へず、一旦緩急あらば、天皇の御為には、われ等も亦このやうに潔く散つてゆかねばならないと痛感したのである」とのことです。
このお歌の歌碑が、天王寺公園にあり、揮毫は乃木希典大将によります。
四、靖国の桜
さて、江戸時代に日本人のあり方にまで高められた桜の花ですが、それがもつとも発現されたのが大東亜戦争の時でした。危機に立ち向かふ将兵は、「靖国で会はふ」と言葉を交はし、「貴様と俺とは同期の桜…」と歌ひ、戦地に赴き、尊い命を捧げました。戦後、遺族たちは、亡き人を偲び桜の花の咲く靖国神社を訪ねました。
英霊の一人である陸軍少尉・長沢徳治命は、
来る年も 咲きてにほへよ 桜花 我れなき後も 大和島根に
と詠みました。彼らの精神は、続・東国人と花に記した防人とつながり合ふと共に、桜の花の美しさと重ねられました。
このやうに桜は、古くはその美しさを讃へられ、近くにはその散る美しさに重ねられたのでした。
私は、桜花咲く九段坂を一人のぼる時、いつもその花の美しさに感嘆するのみならず、英霊の勇気やかなしみを見る心地がするのです。
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