型にはまらない芸術を追求した日本画家・速水御舟
速水御舟は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家です。
早熟の天才だった彼は、たった26年ほどの画業で数々の名作を残しました。
写真家の土門拳は、御舟の熱烈な愛好家だったことで知られています。
肖像写真を見ると繊細そうな印象を受けますが、その内面には強靭な精神を秘めていました。だからこそ過酷な創作活動に耐えられたのでしょう。
その人生をたどってみると、比類なき挑戦者であり続けたことが読み取れます。
この記事では、速水御舟の略歴と代表作について解説します。
日本美術が好きな人は、ぜひ最後までご覧ください。
1. 速水御舟の生涯
速水御舟が画家として活動した期間は、30年にも満たないほど。
15歳(数え年だと16歳)で初出品し、40歳で亡くなるまでひたすら画業に邁進しました。
まずは彼の人生を大まかにたどってみましょう。
絵を描くのが好きだった幼少時代
速水御舟は、1894年に質屋の次男として生まれました。
東京の浅草出身で、本名は「蒔田榮一」といいます。
蒔田家の次男だった御舟は、1909年に母方の祖母・速水家の養子になりました。
当初は生家の苗字を名乗っていましたが、20歳のときに速水姓へ変更しています。
御舟は幼少時代から絵の才能を発揮し、14歳のときに松本楓湖が主宰する「安雅堂画塾」に入門しました。
松本楓湖は歴史人物画の大家であり、文展(文部省美術展覧会)の審査委員として活躍した人物です。のちに御舟が出品する「巽画会」の顧問も兼務しており、誰もが認める重鎮だったといえるでしょう。
才能が開花した修業時代
安雅堂画塾の門下生となった御舟は、古典の模写に励みました。
師の松本楓湖は放任主義だったため、兄弟子の今村紫紅が頼れる存在だったようですね。
御舟は同期の小茂田青樹やその他のメンバーと研鑽を重ね、着実に画力を磨いていきます。
1910年に《小春》を出品し、日本画壇にデビューしました。
紫紅から大きな影響を受けた御舟は、ともに「赤曜会」を結成して革新的な日本画を追求しました。しかし紫紅の突然の死により、会は1916年に解散を余儀なくされたのです。
御舟は兄弟子から「創造と破壊の精神」を受け継ぎ、生涯にわたり貫き通しました。
日本美術院での活動から円熟期への転換
日本画を語るうえで欠かせない画家の1人に、横山大観がいます。
彼は下村観山らと日本美術院を再興し、院展を開催しました。
1917年に院展に出品した《洛外六題》は大観や観山に高く評価され、これを契機に御舟は日本美術院の会員に推挙されたのでした。
しかし次に発表した《京の舞妓》は酷評され、しばらく人物画を描かなくなります。
1919年に祖母のきくがこの世を去り、御舟は葬儀に参列するため浅草に一時帰京しました。その際に市電に轢かれ、左足首を切断する不幸に見舞われています。
御舟はそんな災難などものともせず、30代の前半には次々と代表作を生み出したのです。
《炎舞》や《翠苔緑芝》などは、黄金の5年間に描かれた作品でした。
欧州歴訪から晩年まで
1930年から1931年にかけ、御舟はアジアやヨーロッパを旅して回ります。ローマで開かれた日本美術展に参加することが目的でした。
第一次世界大戦後の日本は一時的な好景気に沸いており、海外旅行に行く絶好の機会だったといえるでしょう。
およそ1年の渡航を経て帰国すると、御舟は新たな画風を模索すべく精力的に活動しました。
ヨーロッパ各地で西洋の古典美術に触れた御舟は、改めて東洋の表現力を再認識しています。しかしデッサンにおいては、西洋に後れを取っていると痛感したようです。
そこで久しく距離を置いていた人物画を通じて、対象を描く技術を養おうと考えました。
《女二題》や《花の傍》などは、その過程で描かれた作品です。
御舟は1935年に、腸チフスにより40年の生涯を閉じました。
その亡骸は兄弟子である今村紫紅の隣の墓に埋葬されており、親交の深さを感じさせます。
2. 代表作《名樹散椿》の魅力
続いては、御舟の代名詞といっても過言ではない《名樹散椿》について解説しましょう。
《名樹散椿》は山種美術館に展示されている、二曲一双の屏風です。
モデルになった木は、京都の地蔵院に実在しています。地蔵院は「椿寺」の愛称で親しまれており、五色八重散椿が名物ですね。
ちなみに御舟が描いた先代の椿は枯れてしまい、現在は2代目に移行しています。
写真家の土門拳は御舟の愛好家として知られており、今はなき椿を写真に収めました。
五色八重散椿の特徴は、1本の木にさまざまな色の花を咲かせること。
実際の作品にも白・赤・ピンクなどが混在しており、鑑賞者の目を楽しませます。
通常の椿と異なり花弁が一片ずつ散っていくため、儚げな印象を与えるかもしれません。
椿の美しさはさることながら、背景の金地にもご注目ください。
よく見ると、箔足(金箔を貼った境目)が一切ないのです。
なぜなら「撒きつぶし」という技法が用いられているから。御舟は金箔を細かい粒子状にしたものを竹筒に入れ、膨大な時間をかけて屏風全体に振りかけました。
この技法は、御舟が少年時代に習った蒔絵から発想を得たと言われています。
普通の画家なら、ここまで手をかけなかったでしょう。
職人気質の御舟だからこそ可能だったといえます。
3. 椿と日本庭園
日本庭園には多岐にわたる樹木が植えられますが、椿もその1つです。
椿は日本原産で、彩りが少ない冬にも花を咲かせる貴重な木。常緑で成長が緩やかなため、庭木に最適でしょう。
海外でも人気があり、カメリアと呼ばれて親しまれています。
椿はよく「縁起が悪い」と言われますが、真偽のほどは定かではありません。
首ごと花が散るため斬首刑を連想させるというのが理由ですが、おそらく迷信でしょう。
私たちが椿に抱くイメージは、古風な日本庭園でしょうか。古き良き趣きのあるお庭と相性抜群で、茶室や高級料亭に似合いますね。
余談ですが、椿の名所である「ホテル椿山荘東京」の庭園には、およそ100種類の木があります。
もし訪れる機会があれば、その美しさを堪能してください。
自宅に庭がない場合は、鉢植えでも栽培できますよ。
挿し木で簡単に増えるため、ベランダや庭の片隅で育てたい人にもおすすめ。
注意点としては、害虫にご注意ください。
椿にはチャドクガがつきやすく、毒性は弱いものの刺されると強烈なかゆみに襲われます。
枝木が伸びてきたら剪定し、もし毛虫が発生してしまった場合は殺虫剤で駆除してください。
4. 飽くなき探求心を持ち続けた東洋のピカソ
速水御舟は、型にはまることを嫌いました。
「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りてきて、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」という名言を残しています。
この言葉に天才画家の本質が凝縮されているでしょう。
その生き様は、スペインを代表する巨匠ピカソに似ています。
御舟は彼ほど長生きできませんでしたが、青の時代や画風の変遷などに共通する部分があるのではないでしょうか。
今村紫紅から学んだ創造と破壊の精神は、御舟にとって創作の源泉となったのです。
人生の壁にぶつかったら、御舟の言葉を思い出してみてください。
きっと何かしらの突破口が見えるはずです。