【小説】『嬢ちゃん/22歳元風俗嬢、底辺高校の教師やります 』35
あたしは、風俗店に勤務した4年の間、店の外では男性との付き合いが一切なかった。ゼロである。ゼロ。
生活に変化を求めて、気晴らしにおいしいものを食べに行くことはあった。銀座にある鉄板焼きのお店が一番のお気に入りだったのだが、イタリアンバルやスペインバルの雰囲気を味わうのも好きだった。
藤原ここあとあたしが横並びにソファー席に座り、立花翼はテーブルの向こう側で木製の椅子に座った。注文やらなにやら、全部、立花翼がやってくれる。これは女性特権として甘えることにする。らくちんである。
あたしは生ハムとチーズでワインをちびちびとやった。酒には弱くもないが、決して強くもないことは自覚している。家でも、酩酊するほど飲んだりはしない。
立花翼はビール党らしく、スペインのビールを試していた。一方、藤原ここあはウィスキーや焼酎という強い酒をロックで行くので驚いた。
藤原ここあの場合は、溜まっているストレスがあったのだろう。少し酒が入ると、膨大な量の愚痴が出てきた。
正面に座っていたからだろう。愚痴のはけ口にされたのは、立花翼である。
また、立花翼は「良い人」なもので、愚痴にちゃんと付き合おうとするのである。そこで、気を良くした藤原ここあが喋る喋る……。
あたしは、一人では愚痴を受け止めきれなくなった立花翼がたまに話を振ってくるところを助けてやって、あとは料理とワインを楽しんでいた。
藤原ここあには致命的な欠点がある。
愚痴は喋るが、どうやら問題を解決しようという気がない。
立花翼は一般的な男性像に近く、論理的で問題解決的だ。藤原ここあの愚痴に対して、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないかという建設的な意見を述べようとする。それを聞いて、藤原ここあは「でも」「だって」と感情的なところを返すのだ。彼女は愚痴を聞いて欲しいだけだ。
実に不毛である。あたしは話を聞きながらも、半分はワインを楽しむほうに気持ちを切り替えつつあった。
一時間を過ぎたころ、藤原ここあは喋り疲れて眠ってしまった。
さすがに後半は蒸留酒からワインに切り替えていたようだが、ワインだって弱い酒ではない。
「……おつかれさま。」
あたしは敬意を込めて、立花翼をねぎらった。立花翼は笑って頭をかいた。
コース料理のメインとなる、パエリアが来た。藤原ここあのぶんは別皿に取り分けて、あたしは立花翼とパエリアを食べながら話した。
「どうも、解決しそうにないね。」
あたしの言葉に、立花翼も同意した。
「どう言ってあげたらいいんだろう。どう思った?」
「うーん……。」
どう思ったかと聞かれて、困ったのはあたしのほうだ。
藤原ここあは、自分で気が付かなければ改善はしない。
そうして、たぶん気が付く気もないのだ。徹底して自分のことしか頭にない、他責志向である。なぜなら、そう育ってきたから。
否定されずに生きてきたから。理不尽な制限を受けず、嫌な思いをせず、どうしたらいいかを自分で考えないまま生きてきたから。学校では『Z世代』の呼び名を恣にしているだけのことはある。
藤原ここあは有名大学の出身だ。たまたま学力だけは持って生まれたのだろう。しかし、人間としての本質は、今ごろ誰かに奉仕しているアキ以下のように見える。
自分でものを考えない、昨今の教育界のテーマ「生きる力」のない、実にくだらない人間のようにあたしには見える。いや、これはあたしが無意識にあたしと彼女を比較して、苦労せずにここまで至った彼女に捻じ曲がった羨望を含めているのに違いない。
しかし昨日「幹事長」が、「最初は、自分の周囲に目配りすることを身につけないといけない」と言っていたが、要するにこういうことのような気がする。
それより気になったのは、立花翼の前向きな態度だ。
あたしは正直のところ最初から、藤原ここあは話を聞いても解決しないと思っていた。それで、今日も早々に諦めた。でも、立花翼はそうではない。あたしと立花翼の違いは、どこから来るんだろうかと考えた。
と、そう言った。
結論めいたものも、あたしは持っていた。
「チームスポーツをやっていた人だからかな、と思った。
チームのメンバーを見捨てれば、チームが弱くなっちゃうから。」
「そうかも知れない。でも、性格的なところも大きいと思う。」
「たしかに。性格的に合わなければ途中で辞めてるよね。他の人とやる、チームスポーツに性格的に合ってるんだ。」
そこで会話は一区切りになった。
このお店のパエリアはおいしい。立花翼はしきりに味をほめた。あたしも同意した。
実は、パエリアがおいしい別のスペインバルを知っている。そこは、世界大会で優勝したこともあるお店で、特にシーフードのパエリアが絶品なのだが……。
言わなかった。そんなことを言ったら、二人で行こうと言われてしまう。
「チームのメンバーで、我が強くて絶対に周囲の意見を聞き入れない人がいたらどうするの? 『自分はこうやるんだ』って言い張って、チームメイトの意見を受けても『でも』『だって』。聞き入れてくれない場合は?」
立花翼はうなった。
「よっぽど上手いやつだったら、チームがそれに合わせるしかない。」
「全然上手くない人だったら?」
「それは、人数が余っていれば外されるよね。」
「人数ギリギリ、使わざるを得ない場合は?」
「……フィールドにいるなら、チームに合わせてもらうしかない。伝えるべきことは、みんな伝え続けるだろう。修正してもらえなければ、もう、そこはいないもの、こっちは10人だと思って対応するしかないかな。」
あたし達の視線は、自然に藤原ここあに移った。
「藤原さんのこと、立花さんが送っていく? あたし、誰にも言わないけど。」
あたしは立花翼に笑いかけた。
教員というのは、学校の外では「先生」という敬称を使わない。こと教員というのは、周囲に身分がわかってしまうことで不都合を生じることも多いからだ。
「いや、遠慮しておくよ。」
「寝てるのがあたしだったら、一人で送った?」
あたしはいったい何を言っているんだ。
口に出した瞬間に後悔した。あたしも飲みすぎだ。
それでも、言ってしまった言葉は戻らない。あたしは「ごめんごめん!」と上書きしようと思って口を開いた。
「送った。」
先に言われた。
変な空気になった。
あたしは完全にタイミングが狂った「ごめんごめん!」を口にした。
ともかく、藤原ここあを放置するわけにいかない。
あたしは立花翼と二人がかりで藤原ここあをタクシーに乗せて、彼女を自宅に押し込んだ。それで、その日はお開きになった。
しかし、立花翼とあたし、お互いが妙に意識し始めたのはこのときからである。
こういうとき、アキが自宅にいないのは不便だ。
あの、深く考えない率直な意見は、失ってみると貴重だった気もする。あたしはシャワーを浴びながら考えていた。
しかし、これをアキに相談しても、また「処女か!」と一喝されて終わりのような気がするな。
そんなふうに思って、あたしは一人でにやけていたのである。
つづく