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【小説】『嬢ちゃん/22歳元風俗嬢、底辺高校の教師やります 』55
あたしが佐藤主人公に会ったのは、学校の生徒指導室だ。佐藤主人公は保護者を伴わず、一人で来た。
あたしが部屋に向かう前、安藤は、横に同席しようかと言った。それを、あたしは断った。
誰かが横にいてくれなければ、話もできないような女なのだと思われたくない。これは一騎討ちだ。正面から勝負して、袈裟斬りに叩き切ってやる。
安藤はあたしが一人で行きたがることを予測していたに違いない。だから、「御武運を」と笑ってあたしを送り出したのだろう。
戦場となる、生徒指導室には隣室があり、薄い扉で繋がっている。
隣室は生徒相談室という名前がついているが、この部屋にいても、扉の近くにいれば生徒指導室での話の内容を窺い知ることができる。
扉の向こう、生徒相談室に安藤、2学年主任、生徒指導部長が待機している。一騎討ちではあるが、あたしは味方に見守られている状況ではあるわけだ。
「テメエか。」
部屋に入ってくるなり、佐藤主人公は怒気を含んだ声でそう言った。
あたしは先に部屋に入っていた。なんだか落ち着かず、窓の外を眺めたりしていたのである。
その声を聞いて、緊張感で胸が締め付けられるような心地がしたが、窓から入口のほうを振り返って、努めて冷静な声を作って言った。
「テメエって誰のこと?」
「テメエはテメエに決まってんだろうが。」
佐藤主人公は足早に、あたしの目の前まで来た。近い。
「なんだか近いなあ。
キスしようっていうんじゃないんだから、離れてほしいんだけど。」
なんか余裕あるな、あたし。
緊張感はあるが、頭は妙に冷えている。行ける。
佐藤主人公は背が低い。
あたしは女性の平均よりは身長がある。165センチ弱。
佐藤主人公の身長はそのあたしと同等か、または低いくらいだ。身体つきも男性にしては細く、貧弱である。
顔も、決して良くはない。軽薄で芯がない。そのくせ神経質そうだ。底辺校に通う多くの生徒に共通する特徴でもあるが、ずっと見ていると不安になる顔をしている。
香澄も、よくこんな男と付き合ったな。
それとも。
それさえも、暴力や暴言によって仕組まれていったのだろうか。
佐藤主人公は腹を立てた。パースの狂ったような顔面をさらに歪めて、両手であたしを突き飛ばすようにした。怒りに任せているので、半分は掌底を打たれたようなものである。あたしは2・3歩後退した。
「痛いな。あたしになにか話があるんでしょ? どうぞ。」
佐藤主人公の表情を見るに、完全に腹を立てている。
言葉で返せず、手が出たわけだ。言葉のやりとりでは、圧倒的にこちらが有利なのだと悟った。
それはそうか。こっちは曲がりなりにも国語の教員で、向こうは底辺校の生徒だ。あたしが手を出したら負けだ。あたしの武器は言葉だ。
「テメエが……。」
「その、テメエっていうの気になるんですけど。お話するなら、ちゃんとしませんか?」
あえて、出鼻を挫いてやった。
「うるせえな!!」
佐藤主人公は吠えるように言った。
たぶん、ナメられた経験がないのだ。特に、女にはされたことがないのに違いない。彼は吠えた勢いのまま、続きを喋った。
「テメエ、ナメてんだろ!」
あたしは、ひとつも気後れしたくない。暴言だの暴力だの、そんなものでコントロールしようだなんて、女全体に対する挑戦だ。すべての女性を代表して、こんな男に負けたくない。
それに、ここで少しでも譲ってしまえば、あたしは暴言も暴力も怖くなってしまう。この先、生徒を指導するのだって、思い通りにできなくなるに違いない。
引くな。戦え。前へ出ろ、小島みつき。
たとえ討ち死にするんでも、あたしは前を向いて死ぬんだ。
「舐めてるとか舐めてないとか、関係ありますか? 話があるというから、時間を割いて来ているんですよ。話してもらっていいですか?」
あたしは、むしろ佐藤主人公に近付いて言った。
「テメエぶっ殺すぞ!」
「それ、暴言ね。そのくだり、もう飽きたから先に行きません? 話っていうのはなんですか?」
あたしが怯まないので、佐藤主人公の目はずいぶん泳いだ。
あたしも何年もソープランドにいて、様々な男と一対一で話してきたからだろうか。それとも、覚悟が決まったからか? 目の前で喚かれても、さほど気にならない。
「テメエ、関係ねえよな? なんで俺と香澄の話に首を突っ込んできてんの? おかしいだろうが!」
「関係ないって、なにがどう関係ないんでしょうか。よくわからないので説明してくれますか?」
「俺と香澄が付き合ってんだよ。この話は俺と香澄だけの話でテメエは関係ねえっつってんの。なんでわかんねえんだ、アタマ悪ィだろテメエ!」
「話をするのに、いちいち暴言混ぜるのやめません?
俺と香澄が付き合ってるって、それ、あなた一人の妄想だと思いますよ。
あたしはその香澄から、あなたと別れたいから味方をしてほしいと言われたのでそうしています。
あたしが関係ないっていうのは、あなたの決めつけですよね? あたし、あなたの間違った認識で暴言吐かれたので、謝ってもらっていいですか?」
「子供を下ろせとか、テメエそれでも教師なのかよ! 人殺しが!」
バカバカしくてあたしは笑えてきた。
「あたしが県に採用されている教諭であることは間違いないことです。
それから、22週に満たない胎児は中絶することが認められているわけですから、一般的には、それを人殺しとは呼ばないんじゃないですか?
でもね、あたし自身、自分が人殺しだっていうのは───」
あたしは佐藤主人公の目を覗き込んで言った。
「何年も前に、とっくに自覚してます。
あたし自身、あたしの子を下ろしたのだから。
あなたより、よほど話の重さを理解してこの件に関わっています。」
佐藤主人公は明らかに動揺した。そして、苦し紛れに言葉を発した。
「テメエ! 教育委員会に言うからな!」
「どうぞ。どこに、なんて言うの? あたし、県教委の知り合い多いの。
いろんな人の名刺持ってる。紹介しよっか? なんなら県議会議員にする?」
ついに絶句して、佐藤主人公は口惜しさに顔を赤く染め、言葉の出ない唇を震わせた。
斬る。
それこそ、キスの距離まで近付いて、あたしは言った。
「暴力で女を妊娠させたくせに、自分自身には反省点がひとつもなさそうなところが信じられません。
あなたがあたしにしたかった話というのは、要するに子供じみたワガママを聞かせたかったということなのですか?」
次の瞬間、あたしは殴られた。
佐藤主人公の拳は遅かった。
力ばかりが入って、大振りになった右の拳を、ひょっとしたらあたしは避けようと思えば避けられた。
でも、あたしはこれを絶好のチャンスと捉えた。すべて理解して、あたしは殴られた。
衝撃の強さは、父のときと比較にならない。当たったのは鼻から左頬の上のあたりだ。
あたしの右手に、金属製のロッカーがあった。あたしはあえてロッカーに身体をぶつけて派手な音をさせて倒れた。
佐藤主人公は、倒れたあたしを蹴りにきた。
こいつが凶悪なのは、顔と腹を狙って蹴り込んでくるところだ。あたしは床に顔を伏せて身を守った。主人公があたしを蹴ったのは、5回。あたしは回数を数えられるくらいに冷静だった。
部屋の外から何人も入ってくるのがわかった。
隣室にいた安藤、2学年主任、生徒指導部長である。彼らが佐藤主人公を取り押さえ、あたしへの暴行は止まった。
あたしが顔を上げたときには、安藤がすぐ近くにいた。
その向こうに、後ろから生徒指導部長に羽交い締めにされた主人公がいる。わけのわからないことを叫びながら、主人公は泣いていた。
勝った。
あたしは確信した。
次の瞬間、鼻からなにか生温かいものが溢れ出したのに気付いた。鼻血である。それはあたしの白いブラウスを真っ赤に染めて、灰色のスラックスも、床も濡らした。
「救急車呼んでくれ! その後で警察もだ!」
安藤が2学年主任に言った。2学年主任は頷いて、携帯電話を取り出しながら部屋を出ていった。生徒指導部長は佐藤主人公を締め上げたままで外へ連れ出していく。部屋に残ったのは、安藤とあたしだけだ。
「……どうなるの?」
「あいつは、若い女性教諭の顔を殴って怪我をさせた。
どう考えても、佐藤主人公が学校に残ることはできない。
君の勝ちだ。あとはこっちに任せて、君は少し病院で休め。」
鼻血を止めるのも忘れて、あたしは茫然とした。
「このセリフは、人生の中でもなかなか言う機会がないと思うから言うんだけど。」
安藤は唇の端で笑いながら言った。
「馬鹿野郎! 無茶しやがって!」
それを聞いたら、なんだか笑えてしまった。
たぶん、それで緊張の糸が切れたのだ。涙が噴き出してきてしまって、あたしは自分の嗚咽を止められなくなった。
つづく
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けしからん…… 指導ですね。