はじめから自信などあるはずがない。だからこそ、最後まで〈自分へのあり方〉を信じて行動することがなにより肝要だ!
みなさんのなかで、日々の生活のいろいろな場面で自信をもって行動をしていますか、ときかれて、はいと言い切れる人は多くないかもしれません。特に、日本(人)社会では失敗を恐れるがゆえに、自信ありげな態度をとることを慎む傾向が強いと言えるのではないでしょうか。その態度は時に消極的にもみえ、結果的に期待した成果が得られないことにもつなりがりかねません。
では、自信はどのようにもてるようになるのでしょうか。自信とは、字のごとく自らを信じることです。どのような状況でも最後まで自分を信じきれるかです。確かに実質が伴わない自信過剰の態度では決してよい結果をもたらすことはないでしょう。日頃からいろいろ考え、経験するなかで時に失敗をすることもあるでしょう。このような貴重な失敗をいかに受け止めてその後に活かし、それを乗り越えていくことで徐々に自信は身についていきます。このような自信はいつも何かを前提にしてそれをクリアしてはじめて得られる、いわゆる「根拠のある自信」ですが、時には「根拠のない自信」も必要だと思います。なぜならば、根拠のある自信はそれら根拠となる事実がなくなれば消えてしまうからです。なにかが達成できないとその都度消えてしまう自信だと言えます。一方、根拠のない自信は、確かに一見胡散臭く心もとないようにも思えますが、自分の内面からの予感や信念などから感じられる “自己肯定” からくるものではないかと思います。
『幸福論』を著したフランスの哲学者アラン(Alain 本名はエミール・オーギュスト・シャルチェ)は、93の項目から成る同書(ゆえに原題は『幸福に関する語録』集英社文庫 1993年)の89「幸福は美徳」の項目のなかで以下のように記しています。
「 外套ぐらいにしか わたしたちにかかわりのない種類の幸福がある。遺産を相続するとか、富くじに当たるとかいう幸福がそうである。名誉もまたそうだ。名誉は偶然の出会いに依存するからである。しかし、わたしたち自身の能力に依存する幸福は、これとは反対に、わたしたちと一体になっている。・・・(中略)・・・ワーグナーはその音楽を、ミケランジェロはその描きを、・・・(中略)・・・ 金儲けのうまい人は、よく言われるように、無一文になったときでも、まだ自分自身という財産をもっているのである。」
そこには、なにもかも失っても“自己という存在”に対する絶対的な肯定感が読み取れます。それは根拠のない自信というよりも “自分という存在への自信”と言い換えてもいいのではないでしょうか。
自分の個性を独創的に放った人に 岡本太郎 という芸術家がいました。大阪の万博公園内の「太陽の塔」をつくった人です。この人は日本のみならずパリなどでも活躍し、個性的な絵画や立体作品などを数多く残していますが、どちらかといえば常識にとらわれずに自らの内から湧いてくる情熱を外に爆発させてきたようにみえます。はじめから上手い、下手などにとらわれず、何事も新しいことにチャレンジすることの重要性を説いています。「へたの方がいいんだ。笑い出すほど不器用だったら、それはかえって楽しいじゃないか」とさえ言っています。著作の一つ 『自分の中に毒を持て』 (青春文庫 1993年)は、みんなと同じ安全な道を選ぶのではなく、茨の道でもいいから自らの生き方を貫く大切さを伝えています。そこには、最後まで自らを信じ切る “熱さ” を感じます。これが本来の自信ではないでしょうか。
本当の自信とは、成功か失敗かを気にすることではなく、仮に失敗したとしてもそう簡単に心折れることもなく、新たなことに挑戦している自分を誇らしく思い、そのような自分のあり方、生き方を受け入れることから生まれてくるものではないでしょうか。 みなさんはどのように感じますか。
くりおんだ 人生塾 柳緑花紅 塾頭