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DEIのE(エクイティ)は逆差別です

DEI(Diversity ダイバーシティ・多様性, Equity エクイティ・公平性 & Inclusion インクルージョン・包括)のE、エクイティは逆差別だと「多様性そのものに価値はない(2)」で書きました。「多様性」の話からやや脱線して書いたことで、中途半端なままなので、この記事で補足します。発祥地の米国におけるDEIが理論的にはどのようなものなのかを示して、エクイティが逆差別であることを説明します。


1.はじめに

経営方針の一環としてDEIを取り入れている日本企業が何社もあります。あるいは、少なくともそのように公式ウェブサイトで謳っています。(日本ではDE&Iとも表記されるようですが、わたしはDEIと書きます。)

このような企業はほとんどが有名大企業で、DEIを採用している第一の目的は、ESGスコアやSDG達成度ランキングを上げることであり、その先には企業価値の向上というゴールがあると容易に想像できます。(シニカルに、DEIが実際にもたらす成果よりも、取り組みを実行しているという「アリバイづくり」の方が重要な企業もあるという見方も可能・・・)

企業が独自でDEIを推進するだけでなく、最近は「DEIコンサルタント」まで登場して、企業のDEIをサポートしています。けれど、企業側もコンサルタント側も、DEIの基盤となった思想や、その究極的な目標も知った上で、それに賛同してDEIを推進しているのでしょうか?

DEIに関して、日本企業で実際に何が行なわれているかは、インターネットからわかること以外はわたしには想像することしかできません。この記事では、DEIとは元来、理論的にどのようなものであるかを説明します。DEIのエクイティとは逆差別でしかないこと、「エクイティ」という概念を無批判に受け入れ、広めることが社会全体にとって有害になりえることを理解していただきたいです。

この記事の内容は、D&Iが論じられるようになった約20年前から現在まで、とくに過去10年間にDEIがさかんな北米の研究者、ジャーナリスト、オピニオン・リーダーの記事やポッドキャストから学びつつ、わたしが自分なりにまとめものです。

(ところで、DEI発祥地の米国では、DEIをやめる動きが起きています。これには、大学、企業、地方自治体などの組織がDEIの弊害に気づいたため方向転換を始めた場合と、DEIへの批判の声を鎮めるために、とりあえずDEIという名称を変えただけの場合があります。)

2.なぜD&IとEがセットになっているのか

DEIが導入される前は、D&Iでした。そのため、DEI(DE&I)になったとき、EはD&Iを補完する追加的なものだと考えた人もいるようです。これは間違いです。DEIは、D&IがメインでEがサブではありません。3つが同等でもありません。本家本元のDEIでは、理論的にはDとIはEのための手段で、DEIの最終目標はE、エクイティです。

本場でのDEIの正体を一言で説明するとこうなります。
DEIは、D=「ダイバーシティーのため」という名目で、I=インクルージョンの方策をとおして特定の人たちを組織に入れ(組織内で権利を与え)E=エクイティを実行するシステム

3.「多様性」の使い方

D=多様性に関しては、「人材の多様性が企業の生産性を上げる」と結論づけた専門的な研究があります。企業が多様性を重視するのはこのため、生産性、利益のためです。ここでの「多様性」は、個人レベルの認知機能的な多様性、すなわち視点や考え方のパターンや、メンバーがグループにもたらす関連スキルが多様にあることです。

認知機能的に多様な個人を集めるため、性別、年齢、国籍・民族といった人口統計的に分類したグループからそれぞれ人材を集めて多様性を確保するという方法がよくとられます。視点や考え方はそのようなグループごとに異なる傾向があるから、というのが理由(言い訳)です。現実には必ずしもそうではないのですが。

DEI先進国はアメリカやカナダのように、例外なく多民族社会です。このような社会では、DEIの文脈で「多様性」というと第一に人種・民族と「ジェンダー」における多様性を指します。非白人や「男性以外のジェンダー」といったマイノリティー・グループに属する人たちが組織内にいることです。

DEIでは、「歴史的に抑圧されてきた/権力を奪われてきた/社会の周辺に押しやられてきた」とされる人の集団がマイノリティー・グループとみなされます。女性は人類の約半分を占め、数値的にはマイノリティーではありません。けれど、女性は歴史的に二級市民扱いされてきたということで、DEIでは「マイノリティー化したグループ」、マイノリティーとみなされます。

ここで注目するべきは、同じ「多様性」という言葉が使われながら、意味がすり替わっていることです。視点や発想の多様性は忘れられ、マイノリティーの人たちが組織に混ざっていることが多様性として重要になっています。

言語の使われ方に注意することは大切です。何らかのアジェンダ(秘密のもくろみ)をもつ人は、一般によく知られた言葉を、こっそり意味を変えて用いて印象操作をすることがあるからです。

上述のように、DEIが広まり、実行されるようになるには、多民族社会はうってつけです。民族コミュニティーのような社会を構成する明確に分類できるサブ・グループが複数あり、グループ間で社会・経済的な格差がある環境でこそDEI、なのです。そのような多民族性や異質性が低い日本では、DEIのおもな焦点は女性や障害者になります。

4. インクルージョンの方法論

インクルージョンはもともと、障害者の社会参加、メインストリーム化(ノーマライゼーション)のための動きや方策をまとめて指す言葉でした。DEI発祥地の提唱者たちは、そこからヒントを得て、インクルージョンの対象をマイノリティー・グループまで広げたようです。

けれど、それには無理があります。障害者のインクルージョンとマイノリティー・グループのインクルージョンは同質とは言えません。このふたつを単純に同一視するべきではありません。

障害者とマイノリティーでは、社会参加をさまたげるものが本質的に異なります。前者には、全体の特徴として第一に人間としての機能上の問題があります。たとえば四肢の欠損とか視力や聴力の欠如・不足、自律的に移動できないといった状態(客観的な認定や分類が可能)で、それに加えて、個人的な能力・適性の課題もクリアしなければなりません。

一方、後者マイノリティーの人がなかなか社会参加できないとしても、それがマイノリティー・グループ全体を特徴づける属性のせいなのか、個人の能力や適性といった他の要因のせいなのかを客観的に判断するのは容易ではありません。

けれど、DEIでは個人的な特徴は無視されます。人は個人としてではなく、属しているグループで識別されます。同一グループ内の個人間の違いも無視されます。アイデンティティ・グループが重要なのです。

DEIのI=インクルージョンで、マイノリティー・グループの人たちを組織に入れるためによく使われるのは、「合理的配慮」です。米国ではAffirmative Action (アファーマティブ・アクション)があります。北米では、職場の採用・昇進、大学の入学者選抜・進級などの際にマイノリティー枠(クオータ制)などで優遇したり、評価を甘くしたりします。日本では「ポジティブ・アクション」と呼ばれ、とくに男女間格差の是正のための取り組みを指すようですね。

アファーマティブ・アクションに関して、米国のハーバード大学などが黒人入学志願者を優遇し、アジア系志願者を差別していたことで訴訟が起こり、連邦最高裁判所がこういった「格差是正措置」に「違憲」の判決を下したニュースをご記憶の方もいらっしゃることでしょう。

北米にはDEIにハイジャックされた組織があります。このような組織では、DEI方策に批判的・懐疑的なメンバーが追い出され(辞職に追い込まれ)DEIに賛同する人に入れ替えられることあります。

たとえば、DEIセミナーでそういうメンバーをつるし上げ、職場に居づらくしたり、マイノリティー差別主義者の汚名を着せてキャンセルしたりします。D&Iの「誰も疎外しない環境づくり」のために「言葉狩り」のようなルールを作り(ポリティカル・コレクトネスのため)反対者・違反者に厳しくあたって排除します。この結果、組織は視点や考え方の多様性を失い、思想的に画一的になっていきます。

インクルージョンにより排除される人が出てくるという皮肉な展開です。

インクルージョンでマイノリティーの人が集まると、組織をグループごとに分割、評価しやすくなります。そうなると、グループ間のエクイティ(E=公平性)方針が実行できます。

再び、言葉に注意してください。「公平性」という言葉からは、普通の日本語の感覚では、何らネガティブな印象は受けませんよね。「公平であること」「公平にすること」・・・何が悪いんですか?って感じです。では、DEIにおける「公平性(エクイティ)」が本当は何を意味するのかを見ましょう。

5.「エクイティ・公平性」の意味

エクイティの日本語での解説は、たいてい以下のようなものです。
――エクイティは、平等(equality イクアリティ)とは違い、人それぞれの違いを考慮して人ごとにサポートの度合いを変えたり、リソース(資源)の分配を調整し、スタートラインを整備することで公平な機会を提供することです。

エクイティの解説に必ずといっていいほど使われるイラストには、身長が違う3人がそれぞれ高さの違う踏み台をもらって、3人とも同じように塀の向こうの景色(花火やスポーツの試合)が見えるようになったり、リンゴの木になったリンゴに手が届いたりします。

各人の身長に合わせて高さが違う踏み台を与える部分が、「サポートの度合いを変え」「リソースの分配を調整」することにあたります。

DEI提唱側はこれを「機会の公正化」とか「公正な機会、誰もが成功できる機会の提供」などと表現します。これは誤解を生みだす表現というか、言葉を巧みに使って理解を混乱させる試みです。

ここでも、言葉の使い方に注目することが重要です。言葉の表面的な意味だけでなく、言葉が指している行為、現象の内容をしっかり識別しなければなりません。

イラストでは、高さの違う踏み台をもらった3人は同じイベントを同じ高さから鑑賞し、同じようにリンゴを手に入れています。「誰もが成功」しています。これは機会ではなく、結果です。全員が同じ結果を達成しています。
エクイティの一番短い定義は、こうです――エクイティとは結果の平等化である

イラストは、障害者のインクルージョンのためにリソースや機会へのアクセスを保障し、「スタートラインを整備する」様子の描写と言った方が正確です。それをDEI提唱者は、女性や他のマイノリティー・グループへの対応にすり替えています。結果をいじっているのに、働きかけている対象は「機会」だと印象操作しているのです。

「機会」に働きかけるなら、花火やスポーツ競技、リンゴ園開放などに関する情報を広く周知すればいいのです。「公平」の本来の意味で「公平な機会を提供」し「スタートラインを整備」するなら、情報をあらゆる形態で発信し、イベント会場までのアクセスが不便なら送迎サービスを用意すればいいのです。ついでに、「スタジアム入場は有料ですが、会場から〇キロ離れた〇〇の空き地から無料で観戦できます。ただし1.5メートルの壁があります」なんて情報も追加で。

さらに、イラストは、現実の状況のアナロジーとして適切とは言えません。社会で、組織でDEIにからんで問題になるのは、大勢の人が同時に楽しめるイベントや、リンゴ園に無数にあるリンゴをたった数名で収穫することに例えられない状況の方が多くありませんか?

たいていの場合、有限の機会・リソースの分配の問題です。空席になった部長職(ひとつしかない)に誰が就くか、予算枠内でどのプロジェクトに投資するか、募集人員3千人の大学で1万人の入学志願者から誰を選ぶかといった話です。

このイラストの使用は、意味をすり替える言葉の操作に似ています。現実を不正確に描写したイラストで、状況をわかりやすく説明しているように思わせて、人を納得させようとしています。

6.エクイティ=結果の平等化=逆差別=差別

機会・リソースが有限なら、誰かを不当に優遇するのは、別の誰かを冷遇、差別することになります。

たとえば、募集人員総数は変えずに特定グループの志願者を優先的に大学に入学させれば、それ以外の合格者の中には入学の機会を奪われる人が出てきます。企業がある女性を、経験や能力、適性上は不十分でも、ポジティブ・アクションとして昇進させれば、性別不問の評価ではその女性より優秀で適任の男性社員がいたら、性差別されたことになります。

「エクイティは逆差別ではないのか?」と疑問に感じている人への答えはシンプルです。エクイティは逆差別です。法律家によると、差別には正も逆もありません。つまり、逆差別は差別です。

7.「逆差別ではない」と言う人たちの言い分(日本の場合も含めて)

「逆差別ではないのか?」という問いかけに、DEI先進国で「違う」と答える研究者やオピニオン・リーダーは、一般的に多民族社会におけるグループ間格差の是正が必要であることを強調します。大学の場合は、人種的に多様な環境は教育上好ましい影響を学生に与えるという主張があります。

アメリカやカナダほどの多民族社会とは言えない日本でDEIを推進し、「エクイティは逆差別ではない」と考える人たちがどのような理由を挙げているのか興味があったので、ネットで調べてみました。個人・組織のウェブサイト、インタービュー、ブログなど十数件読みましたが、「冗談ですか?」と思うほど、金太郎飴的に同じ文言でした。また、わたしにとって説得力のある説明はひとつも見つかりませんでした。

中には本当に呆れかえるようなものもありました。たとえば、「ポジティブ・アクションと呼ばれる取り組みで逆差別にはなりません」。…は?名称が違う?呼び名が違っても、中身が差別なら、差別じゃないでしょうか。

某大手商社系シンクタンクでは、「一人ひとりの特性によって、スタート地点に違いがある。つまり世の中には構造的な差別がある〔ので〕、その構造の偏りを点検し、正そうと…」と説明しています。「一人ひとりの特性によって、スタート地点に違いがある」とは、能力や適性の個人差のこと、つまり個人レベルの多様性です。それを「世の中」の「構造的な差別」にすり替えています。

普通に考えて、ある業界の企業である役職につくには、特定のスキルが高レベルであるといった条件が要求されます。そのような条件を満たす人が候補になり、満たさない人は考慮されない・・・これを「構造的な差別」と呼びますか?

確かに、構造的な差別がある職種や分野はあるでしょう。でも、経歴、能力、動機などがそれぞれ異なる人たちが、ある特定の枠組みにおいて違う扱いを受けることが「差別」ですか?これはメリトクラシー(能力主義)というのではありませんか?

ここでちょっと脱線して、「メリトクラシー・能力主義」という言葉の説明をしておきます。わたしは、「能力主義」という言葉を、人材の評価や採用、昇進において、関連する技能や適性などを最重視する方針を指して使います。たまに「能力主義」を、「能力によって、その人を人間として本質的に優れている/劣っていると決めること」と思っている人がいますが、これは違います。ある特定の役割、機能を果たす上での能力のことだけを考えています。

話を元に戻して、「エクイティは逆差別ではない」という主張の理由(言い分)として一番多く見られたのは、表現は微妙に異なっても、「不平等な状態が先にあったので、それを是正するのだから、逆差別ではない」でした。これは「逆差別ではない」理由の説明になっていません。「エクイティとは何をするものか」の説明でしかなく、実は「過去の不平等を是正するために、これからは逆方向の不平等を行います」と言っています。

日本企業の多くに1985年まで、今では考えられないような女性差別的な制度がありました。現在よく話題にされるアンコンシャス・バイアスとか女性への先入観、職場文化といった言わず語らずの事象ではなく、明示的な、明文化された規則でした。たとえば、採用・配置・昇進での女性除外は当然ながら、女性社員は結婚したら強制退職、女性は両親そろった家庭出身で親元からの通勤で新卒(もちろん未婚)でなければ採用不可といった理不尽な規則もありました。

そのような「先にあった不平等な状態」を是正するのなら、今から差別的制度・慣習を一貫して廃止すればいいのではないでしょうか?採用や昇進のための評価基準を透明にし、適正度・客観性を高める対策も採用して。さらに可能なら、過去に差別的制度から実際に被害をこうむった当事者への賠償を考慮してもいいかもしれません。そうではなく、エクイティでは、過去の不平等・差別に何の責任もなく、そこから何の優待・恩恵も受けていない人を現在、不当に扱おうとするのです。

これは、DEIの根源にある思想のひとつ、Critical Race Theory(クリティカル・レイス・セオリー=批判的人種理論、略してCRT)という米国発の人種問題・人種差別への対応・考え方を反映しています。

8.エクイティ、CRT、アンチレイシズム

CRTとは何かということを書くと長くなるので、本記事の文脈で、エクイティとの関連で重要と考えることだけを短めに書きます。イブラム・X・ケンディ(Ibram X. Kendi)というボストン大学の教授がいます。ケンディはCRTの発案者ではなく支持者のひとりです。日本では、著書How to Be an Antiracistが翻訳書『アンチレイシストであるためには』として出版されています。

ケンディのCRTにもとづく人種差別の考え方は、極めて短絡的です。つまり、「社会にはレイシスト(人種差別主義者)かアンチレイシスト(人種差別をなくすために積極的に行動している人)しか存在しない。人種間のあらゆる格差は人種差別が原因である。これに同意しない人はレイシストである・・・」

さらに、人種差別とは人種間の結果の相違のことで、結果の相違を生じさせる政策、制度、取り組みはレイシスト(人種差別的)であり、是正しなければならないとも主張しています。具体的には、米国の総人口の人種別構成は約62%が白人、19%がラテン系、13%がアフリカ(黒人)系 etc. …ですが、富の所有や官民の職業ごとの就業者数、さらには刑務所の被収容者数といった結果の人種別構成が同じでないなら、それは人種差別、人種間の機会の不平等、人種を理由とした抑圧の証拠である、と考えます。

格差はすべて社会システムと差別のせいで、個人の関心、能力や適性、動機や努力は考慮されません。すべてをグループ単位の達成結果の比較で判断し、個人レベルの評価はありません。この考え方のアホらしさ、わかりますよね?

ケンディは、このような「グループ単位の結果の不平等=人種差別」を是正する方法を以下のように説明します。

“The only remedy to racist discrimination is antiracist discrimination. The only remedy to past discrimination is present discrimination. The only remedy to present discrimination is future discrimination”  
―How to Be an Antiracistより引用(シスカ訳:人種差別の唯一の解決策は、アンチレイシスト差別である。過去の差別の唯一の解決策は、現在の差別である。現在の差別の唯一の解決策は、未来の差別である)

ある差別を「解決」するために、それを別の差別と取り換えるのです。前述の、エクイティを「逆差別ではない」という日本の人たちの言い訳、「不平等な状態が先にあったので、それを是正するのだから、逆差別ではない」を読んだとき、わたしはケンディのこの言葉を思い出しました。共通点は明らかですよね。

この考え方が社会にとって有害で危険なことがわかりますか?

9.エクイティ(有害で危険)VS.能力主義(一番フェアなやり方)

ある社会において過去にある集団が受けた不平等を「是正」するために、別の集団への差別を今、制度化する?そんなことをしたら、社会はどうなりますか?ケンディは、人種間格差をなくす(=結果を平等化する)ために、人種問題に関して絶対的な権限をもつ政府機関を設立して監視することも提案しています。結果の平等化は、権力の介入や何らかの操作なしでは不可能だからです。

(政府の介入で結果の平等を実現しよう…って、こういうイデオロギーを何て呼びましたっけ?過去約100年間に世界各地で試されて一度も成功したことがないばかりか、約1億人の命を奪った… )

現実的には、結果の平等化(=エクイティ)のためには、達成レベルを下げる必要があります。

「誰もが成功できる」エクイティを実現するためには、学校のテストに例えれば、全員が合格するか同じ点数を取れるようにしなければなりません。そのためには、テスト問題を簡単にするか、「スタートラインの整備」として一部の人たちに前もって正解を教えるかです。各人の身長に合わせて高さの違う踏み台を与えるのと同じです。

これは能力主義の放棄です。個人の能力、才能、特性、努力が無視され、無意味になります。能力主義の重要性を今さら説明する必要があるでしょうか?

能力主義を、能力の高い人だけが得をするシステムとしてネガティブにとらえる人がいますが、これは誤解です。能力主義は、個人の能力に合わせて配置を最適化し、できない人にできないことの過分な責任を負わせない親切なシステムでもあります。社会が比較的効率的に機能し、全体に恩恵をもたらすシステムです。

能力主義の別名は「適材適所」です。現実の社会でなされるべきことは、それをちゃんとできる人にしてほしくありませんか?飛行機に乗るとき、パイロットは確実に航空操縦ができると信じていますよね?家族が脳外科手術を受けるとしたら、担当医師には十分な経験や技能、知識をもっていてほしくありませんか?

人は誰もが人間として、生まれながらに価値があり、その尊厳が守られ、法の下の平等が保障されるべきです。けれど同時に、人は生まれながらさまざまな遺伝的な違いがあります。さらに、生まれてきた環境と成長過程においても違いが生まれます。

そのような多様な人間の集団に関する心理学研究で、動機に関してわかっていることがあります。人間の集団にはなんらかの公式、非公式(暗黙)のヒエラルキーがあるものですが、その根拠として集団のメンバーが一番フェアで容認できると感じるのが能力主義です。

それ以外の理由(縁故主義、派閥、能力以外の属性など)によるヒエラルキーは、メンバーの動機、やる気を低下させ、グループとしての結束を弱めることがわかっています。やがて、集団は崩壊の危険に陥ります。

エクイティ―が目指す「結果の平等」、すべての人が完全に平等な結果を得る状況は、現実には達成不可能です。個人の能力や適性を無視し、真の意味での多様性尊重の精神に反します。 

10.逆差別政策がもたらすもの

日本のDEI推進者たちが言っていることをネットで読んだとき、その素晴らしさを説明するばかりで、実際の効果の検証がないことに気づきました。導入したばかりで、まだその段階ではないのかもしれません。効果を解説するデータがあったとしても、別のところから持ってきた理論的なもので、自分たちの企業での実際の成果というのは見かけませんでした。(ご存じの方は、お知らせください!)

一方、DEIの前にアファーマティブ・アクションが生まれたアメリカでは、その効果を研究し、結果を発表している専門家がいます。

トーマス・ソーウェル(Thomas Sowell)という経済学者は、2004年に Affirmative Action Around the World: An Empirical Study (「世界中のアファーマティブ・アクション~経験にもとづく研究」)という著書で、アメリカだけでなく、インド、マレーシアなど4か国で実施された特定の人種・民族グループ(社会経済的に不利な立場にある)を優先する政策を分析しています。

結論として、アファーマティブ・アクションに効果はほとんどないか、かえって逆効果であることが証明されました。政策から恩恵を受けるはずのグループ内では、本当に援助が必要な人たちは放置され、援助が不要な人たちが優遇されるということがよくあり、グループ間および同一グループ内の格差は長期的には縮まらなかったのです。

DEI推進派はソーウェルの研究を無視したり、学界でキャンセルしたりする動きがあります。何も知らないDEI やアンチレイシズム支持派は「白人男性の言いそうなことだ!」などと言ったり…。ソーウェルは黒人なんですが!

もっと最近では、アメリカで名門大学に入学したり、社会的地位の高い職業(医師や弁護士など)に就いたマイノリティーの人たちについて、ネット上でよく議論されています。こういう人たちがインポスター症候群を経験することはよくあります。自分がここまで成功したのは、完全に実力によるのか、マイノリティー優遇政策のおかげか?と悩むわけです。

また、世間の見る目も変わっています。米国人が多く書き込むフォーラムでは、「2010年代以降にエリート大学を卒業して資格を得る黒人・ヒスパニック系の弁護士や医師は信用できない」といった意見を読むこともできます。人種間格差をなくすはずの政策が、差別を助長することになるかもしれないのです。

DEI先進国では、マイノリティー・グループに属する人が責任・権威のある地位に就いた後、仕事でのパフォーマンスがかんばしくないと、DEIに批判的な人たちから「DEI任命」「ダイバーシティー採用」のように揶揄されます。実際、ただの揶揄でなく、正確な指摘であるケースもあります。

その一例として、2024年1月に辞任した元ハーバード大学学長クローディン・ゲイ(Claudine Gay)が挙げられます。黒人女性で初めてその地位に就きましたが、2年ももちませんでした。研究者としての業績がほとんどなかったことに加え、その数少ない論文に盗用があったらしいこと、さらに指導力と判断能力の欠如が露呈し、批判され、辞職につながりました。

他にも有名な「ダイバーシティー採用」があります。2024年7月トランプ暗殺未遂事件の当日に護衛にあたっていたシークレットサービスの女性は、人命にかかわる採用ミスマッチでした。守るべき対象や男性エージェントの肩ぐらいまでしか身長がない女性が3人、おろおろと変な動きをするビデオをご覧になった方もいらっしゃることでしょう。

シークレットサービスの初の女性長官キンバリー・チートル(Kimberly Cheatle)は、おそらくカマラ・ハリス副大統領と同様に、バイデン大統領による「ダイバーシティー任命」でした。チートル自身もDEI推進派で、シークレットサービス人員の30%を女性にする目標を掲げていましたが、護衛失敗を激しく非難されて辞職しました。

このような前例が女性やマイノリティーの社会進出、差別撤廃の助けになると思いますか?かえって差別につながると思いませんか?

能力や適正を無視したDEI推進が、現実にはどのような結果を招くかという教訓とするべきです。

最後に・・・
エクイティ―が目指すのは結果の平等化です。結果の平等化には、何らかの介入・操作による逆差別が不可欠です。逆差別は結局は差別であり、あらたな差別となります。また、組織の士気を低下させ、まとまりを弱めます。

「多様性そのものに価値はない(2)」で、以下のように書きました。
 ―国外から日本に新しいコンセプトが導入され、カタカナ語で流通しだすと、受容の仕方のずれや社会環境の違いのせいで、内容が変わっていくことがよくありますよね。DEI、とくにエクイティもそうなることを願わずにはいられません。

エクイティーに関しては、日本での超ガラパゴス化を切望します。
 

最後までお読みいただきありがとうございます。

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