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悪意とこだわりの演出術【書評★3】TVの「非常識」から学べる事

★★★☆☆
TV業界がなぜ度々非常識な番組を行うのか、そしてそれは「非常識」として片付けて良いのか、そしてその「非常識」の中から学べる何かを教えてくれる一冊

★の意味
☆☆☆☆☆内容が有害(デマ、フェイク、ヘイトなど)
★☆☆☆☆時間とお金が余ってて、内容が薄くても許せる人向け。
★★☆☆☆人によっては学びがあるかも。勧めるほどではない。
★★★☆☆標準。値段相応の学び。本棚があるなら売らずに手元に置く。
★★★★☆定期的に読みたい。本棚の一軍。
★★★★★誰かれかまわず布教するレベル。(年間数冊もない)

なぜTVは非常識な行いをするのか

TV業界はお世辞にも右肩上がりの産業とは言い難い。口さがない人はマスコミをマスゴミと形容するし、そうでない人にとってもバラエティーにおける差別的なりいじめめいたいじりに呆れた人は多いだろう。この著者は出版時30代だが、おそらくこの世代が、TVが権力と名誉の頂点だった最後の世代なんじゃないかと思う。だから、この著者はあくまで正義として包み隠さず内情を書けるし、だからこそ現在のTVが冷ややかな目で見られていることを理解する一助になる。

この本は演出術とは名がついているが、仕事術の本ではない。それは整理されたノウハウではなく経験と信念に基づく彼の経験が記されているし、いい意味ではハウツー本にありがちな薄っぺらさとは無縁の血肉の通ったエピソードと共に紹介されている。

タイトルにもある悪意というのは、彼のプロデュースする番組における「いじり」を指しており、本書を理解する上で重要なキーワードとなる。曰く、悪意あるテロップやナレーション、VTR中の人物を貶す演出をするのは貶めたいのではなく、面白くするためには悪意ある編集をするしかない、と表現されてる。具体的には持ちネタを披露しているVTRを途中でぶった斬った李、滑ったか受けたか微妙なネタを強制的に滑った形にして笑いに落とし込むやり方だ。

悪意の手段化という倒錯

我々の通常の価値観では悪意は何らかの問題の帰結というのが自然な認識だが、TV業界では悪意の手段化というべき倒錯が存在する。おそらくこれは悪意に限らないのだと思う。悪意という手段すら正当化される「笑い」や「面白さ」への絶対視が、それ以外の全てのものを手段化してしまう歪んだ世界だ。何年か前に、コンビニの従業員がアイスケースの中に入った動画をSNSにアップして炎上が繰り返されたが、あれと構造は近い。違いとしては番組では(おそらく)店に許可をとった上で、TVという虚構の中で行われるフィクションとして繰り広げられる笑いか、それとも店に無許可で損害を与える迷惑行為であるかの違いこそあれ、「なぜそれを行うか」という動機部分は共通している。

私はそれ自体は悪くないように思う。「自分はクラスの中でもイケてる集団だ」と思ってる人たちがくだらない馬鹿騒ぎに精を出しているのは、それが自分の不利益に繋がらない限りは笑って見てられる。なんせ全てフリーでパンとサーカスが与えられるようなもんだ。バラエティーも本来はそうであるべきだったし、制作側もそのつもりで作っていたんだろう。

だが、現実はそうならなかった。TVはパンとサーカスの提供者では飽き足らず、社会の公器たる役目を気取り、いつしか新聞からその地位を奪った。もちろんニュース部門とバラエティ部門は別だし、スタッフも分業しているだろう。それこそ学校でのいじめを悲痛な顔をしたアナウンサーが伝えた1時間後にはバラエティで芸人いじめが公共の電波で放送されているというのは、倫理観の一貫性に疑問を持たれるのも無理はない。

この著者は企画書を書いた瞬間にヒットを確信した企画が数本あると言い、その中で会議でボツになった案としてドラマではないバラエティとしてのカイジ、すなわち債務者鉄骨渡りを挙げている。

「本当に切羽詰まった人たちのリアル一本橋を見たかったですねー」

悪意とこだわりの演出術

本来はサブカルチャーというか、いわば楽屋裏で合意の取れたパブリックいじめみたいなアングラ的な要素を面白がる感覚がバラエティー制作者の中にはあって、でもそもそも公共の電波という器はそれにそぐわなたったんじゃないかと思う。いつの間にか品行方正さや誠実さを求められるようになったのも当然のことだし、むしろ非常識にNoという流れは遅すぎたとすら感じられれる。だが時として非常識な形を取りうる「笑い」への真摯な追求は、常識の世界にとらわれている「品行方正」で「誠実」であることを求められる我々に多くの学びを与えてくれる。

悪意とならぶもう一つの要素、こだわり

本書のタイトルの「悪意とこだわりの演出術」のうち、悪意がここまでのパートだとしたら、こだわりがここからの重要なキーワードとなる。著者は一貫して、こう主張する。

やりたくない事、面白くない事はしない。やりたい事の中から「視聴率が取れなさそうなもの」は選ばないくらいが良い。


これに続けて、皆の意見を聞きながら反応の良かったシーンの尺を長くするのはきれいな仕上がりになるが、好きでも得意でもないことやるとダサくなるし、自分の個性に気付けない、と続ける。

アイデアは無尽蔵ではないので、面白いと思った物の中でトラブルの種になるものを避けて2番3番の選択肢を選んだら全体のクオリティは下がる

その流れの中でのこの言葉は妙な説得力がある。確かにトラブルは確率だけど低クオリティは確定なので、それなら確定した負けを取りに行く人はいないだろう。本書では山下達郎の言葉が引用されている。

今だけ我慢しろは嘘、自分の信じることを貫いてブレークスルーしなかったらその先と絶対にやりたいことはできない。(中略)やりたくない事をやって売れても意味がない

これはとても大事なことで、好きでないことをするというのは、いくら熟練しても、自分にとってそれは作業になってしまう。個性は生まれ持ってのものというより、自分の好き嫌いや選り好みにわがままになることで伸ばしていけるものなのだ。本書ではそうやって愚直に自分の「好き」に正直なることで、下手にマンネリを避けて統一感がなくなるという失敗を踏まず、似たテイストを作り続けることで自分の目印になっていくと説く。

これはかなり応用できる内容だろう。それこそ、報告書や論文はフォーマットが決まっているがパワーポイントは多少のセオリーこそあれ、微妙な色使いやデザインなどはとやかく言われることはない。だから自分の中で好きなスタイルや構成を見つけたら、それを使い回すのが内容にも注力できるし、見た人もこのセンスはあの人かな、と思ってもらえたらしめたものだ。

再現性の高いこだわりのための図式

こだわりがここまで強いとなると、場当たり的な思いつきではなく「笑い」のための図式がある。

基本があったらズラすのは簡単

著者曰く、面白くない芸人は突飛なことをするが、行き先が見えてないと視聴者はついていけない。入り口と出口があってそれを道筋で結び、そこを脱線していくからこそ、視聴者は安心して脱線の意外性に身を任せて楽しめる。具体的な例で言うなら水曜日のダウンタウンで、「〜説」と言う説を立ててそれを検証するスタイルを作ることで、「何もわからなかった」という失敗でも早回しにすることで一つの笑いに昇華できる。

そしてズラす対象となる「基本」は何も自分の手持ちのカードにとどまらない。芸人のいつものギャグを最後まで言わせず画面を切り替えることもズラしだと言う。他人の苦労して作った基本をズラして笑いを取れるのはTVの中だけで、それを現実でも同意なく行えば単なる下品なイジりとなる。この辺りはTV業界以外が猿真似しても顰蹙を買うだけだろう。

バラエティは批判と隣り合わせで、ヤラセをする時ににはいかにも嘘っぽいヤラセにしてるが苦情が来た事もあると彼は明かす。

視聴者はもう少し理解して見てくれてるかと思ってましたよ。視聴者のレベルを下げないようにするのも役目のひとつなのかな…と思ってます

やらせやイジリというある意味一種の良心を捨ててまで彼らがここまでこだわるのは、バラエティのプロデューサーというのは「絶対に取れない100点を何とか取りに行こうと近づく仕事」だからであると言う。このへんの感覚はTV業界以外でも実に多くの人に馴染んだ感覚ではないだろうか。絵を描く人、文章を紡ぐ者、音楽を作る人間なら当然皆が首を縦にふるだろうし、研究者というのもそれに近いところがある。でもどこかで論文を出さなきゃいけない。そして一度受理されて掲載された論文は、手を加えて完成度を上げることはできない。だから有限の時間の中で100点という無限遠のクオリティを求めるイバラの道というのはとても共感できる。

今年は読んだ本を全例レビューすることにしたので、この本は最初からどう書こうか考えながら読み進めた。正直に言うとTV業界というのは偏向報道や品性下劣な番組の宝庫だと思っていたし、それは読み終えた今も大きく変わらない。特に最初の数十ページは倫理観の違いにアナフィラキシーショックを起こしそうになった

ただ、読み進めていくうちにその中で活動する1人1人にそれぞれの言い分があり、またたたえばバラエティを指して下衆さを批判するのはあたかも口紅を食べて味を評するようなものだと思うような感情が芽生えてきた。むしろ目指す方法やそのための手段は歪んでこそあれ、本質的には芸術家、表現者、クリエイター、著述家、学者、そうしたものたちとTV業界人は何らかわるところはないように感じられる。それでもやはり、さすがはTV業界だな、と思うのはこの一節だ。

TV以外の媒体で何かのパロディが行われた時、これはテレビでもやらなきゃ行けない、テレビでやるなら他の局に取られたくない、僕らがやらなきゃならないという使命感を感じる。

これはある意味、ほかの業種も見習うべきリスクテイキングとフットワークに思える。著者は作中で、ほかの表現者と違い、番組制作は勤め人だから失敗しても失職はしないからこそリスクを取りにいかない意味がない、と述べている。このリスク選好の考えがおそらくは悪意の手段化や、自分を前面に出すこだわり、そして確定した萎縮より未確定の怒られの方を選ぶという行動を支えている。

様々な成功者がリスクを取れ、リスクを取れと大合唱だが、リスクをとるというのは何も転職やベンチャーといった大事だけに限らず、同じ職場同じ仕事をやるうえでも十分に取れることを本書は具体例を交えて見せている。本書を読み始めた時は★1に足りるかどうかと思っていたが、読み終わってみると十分に★3の価値のある一冊と言える。あなたにも良きリスクテイキングライフを。

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荒神弥哉
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