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諦めるならば愛せよと 映画「哀れなるものたち」感想

人間は好きですか?


 私が最も好きな生物は、と問われたら”人間”だと答えられるかもしれない。
人間は面白い。私が狭いコミュニティに帰属する意味として、人間同士の交わりが面白いからだと書いたこともある。

 こういうように痛みすらやや傍観的に、醜さすら愉悦的に愛してしまうようになるまでは人間も、自分自身も大嫌いだった。どうにも傷つけ合わずにはいられない、平和を願うほどに折り合いの付かなくなっていく社会。定義づけられない正義を貫くほどに誰かが悪になっていって、懲悪的に振るう暴力の裏で透明になっていく声。この世に正しさがないということはいつも私を苦しめた。
 生きていくのを諦めたくなるくらいだった。世界は壊れていて、私も壊れている。何度も絶望と夜を越して、結局死ぬことは叶わなかった。そんな自分がいつからか気づいたのは、知性や文明をもちながら決してわかりあうことができない、本質的に醜い生物だからこそ美しくもなれるのだろうということだった。




「人間と動物を隔てるものは何か」


とある博士は講義の場でそう学生に投げかける。メスをもち、遺体を躊躇なく切り開いていく様は熟練の研究者らしい探究心を証明する一方でどこか逸脱した倫理観を感じさせる。彼__ゴッド博士の家にはある実験体がいた。名をベラという彼女は、美しい成人女性の姿を持ちながら、精神や行動はまるで幼児のそれであった。なんと博士は自殺した妊婦の遺体を拾い、その胎児の脳を母親の脳に移植して蘇生させたというのだ。学徒であるマックスは博士からベラの発達過程を観察する研究助手を依頼される。驚くほどのスピードで発達するベラを前に恋心を抱くマックス。一方で家を飛び出し、世界を知るための旅に出たベラ__。

 映画「哀れなるものたち」はその演出や芸術性が高く評価されヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した。

 私が噂を耳にしたのはXで、ふと見かけたポスターに心を奪われた。
印象的なパフスリーブの青。首元のフリルから続く装飾的なドレスかと思えば、その胸からは何か流れ出すような世界が広がっている。かっちりとした縦長のフォントはクラシカルな印象を与え、ベラのまっすぐな瞳に強く訴えかけられるような気がした。
「哀れなるものたち」
誰が、どうして“哀れ”なのだろうか。知りたいと思った。

 12月公開ということもあり、終演している映画館が多かったのだがどうにか滑り込みで見にいくことができた。フランケンシュタイン的な奇妙で不思議なストーリーには全く予備知識を入れずに鑑賞したのだが、喜劇的なラストには思わず笑みが溢れた。人間が文明を作り上げるまでに至った高度な“知”と表裏一体の“性”について__言い換えるならば理性と本能について__その美醜をありのままに描いたという印象を受けた。

特筆すべき、衣装や色彩への感想も書きたいのだがまずはともかくストーリーについて言及しよう。

全てを理性に捧げることも、本能に委ねることも叶わない極めて曖昧で不完全な生き物

美しくも醜くもなれる私たちへ、愛を込めた哀れみ。

 映画を見て私が感じたのは、“哀れ”なのは人間という生物であること。そしてそんな哀れな我々を抱きしめるような愛だった。

エマ・ストーン(ベラ役)
「彼女が自分の目を通して世界をどう受け止めているかがすべてであり、人々が彼女にどう反応するかが重要なのです」

「哀れなるものたち」パンフレットより 

 ベラは成人女性の身体に未発達の精神という極めて奇妙な生い立ちを持っており、社会的な常識や羞恥心が身についていない。だからこそ、何にも囚われない自由な視点で世界を学び、成長していく。変化し続け、己の力で生き抜いていく彼女の人生そのものが物語として秀逸である。
 だが、唯一無二のベラという存在を受け変化していく周辺人物たちこそ、注目すべき点だ。彼らに共通して言えるのは、誰もが理性と本能の間でゆらめいているということ。それは時に人を美しく、時にひどく醜く見せる。
 例えば、ベラを旅へと連れ出したダンカン。知的発達を遂げる彼女と反対にダンカンは自身の独占欲やプライドに呑まれ破滅していく。その他にも非常に個性豊かな登場人物が現れる。学術的世界に生き、倫理観すら曖昧にしたのに最終的にはベラへ芽生えた愛情に勝てなかったゴッド博士。ベラに社会を教え、唯一プラトニックな愛を貫いたハリー。
 理性と本能__そのどちらもが人間という生物の本質であって、その全てが愛おしい。

__結局のところ、根っこの”性”や”性分”の欲する部分は誰もコントロールできない。自分や周囲へのコントロールを制する”強さ”や”なんらかの力”とはなんなのか?おそらくそれを喘ぎ、藻掻きながら空を手探りし続ける”哀れなるものたち”__(中略)神の目線を見せつけられるような、しかし人間のエネルギーに満ちた、突き放した”人間讃歌”の作品です。

「哀れなるものたち」パンフレットより 清水祟(映画監督)

 これが私の抱いたものに最も近いと感じた。人間という生物を俯瞰して描いたということは神の目線という言葉がしっくりくるのだが、しかし人間として正確に捉えている。人間の目で人間を賛美し、哀れみ、それすらも愛している。特にこれだけのテーマを扱っておきながらあの喜劇的なラストは素晴らしいとしかいいようがない。本当に人間として人間を愛しているのだと思った。

(ベラは女性であり、娼婦として体を売りながらも自らの手で強く未来を切り開いていく。フェミニズム的な視点からも非常に素晴らしいと思うのだが、この点においてはパンフレットや他の方の感想をご覧になってほしい。)

ベラを通して見る、美しい世界

 さて、ここからは色彩・衣装・音楽について冗長にならない程度にまとめたい(すでに2000字を超えている….)

 冒頭、ベラが旅に出るまでの暮らしはモノクロで演出される。色という情報が少ない代わりに、変わったカメラワークや広角レンズを使用して歪んだような演出が多い。幼少期独特の世界の捉え方がうまく表現されている。マッドサイエンティストである博士邸宅のどこか黴臭く陰鬱な雰囲気の表現としても十分だ。博士を見て育ち、脳みそや指を切り刻んで遊ぶベラ、アヒルの身体に犬の頭のペット。そういう狂気的で不思議な世界に、いつの間にか惹き込まれていった。
 ベラの世界に色がついたのは、旅に出てからのことだった。特にピンクやブルー、イエローが印象的に使われている。博士の家という箱庭で育ったベラにとってどれほど外の世界が鮮やかで刺激的であったか感じることができる。旅中の衣装は特徴的なパフスリーブ・バルーンスリーブのドレスが多く、ふんだんに布の使われた裕福さ・豊かさの象徴とも言える。この時の衣装は煌びやかで、繊細でただただ目を奪われる。女性らしいフリルやレースを使いながら、こだわり抜かれたシルエットにはデザイナーの技が光る。恵まれた境遇に自覚がなく、自身の欲望のままに行動するベラ。やがてハリーとの交流の中で社会や貧困を目の当たりにすると、豊かな生活を放棄、自分の力で生きてゆくこととなる。
 ベラが新たな場所で自立すると、身にまとう衣装は無駄のないややスタイリッシュなものへと変わっていく。博士の危篤を受け、里帰りするがそこはもうかつてのモノクロでは描かれない。落ち着いた色で描写される画面は、ベラの成長を表している。
 全体を通してカラーパレット、衣装(デザインだけでなく素材や身につけ方、ヘアメイクに至るまで……!)には並々ならぬこだわりを感じた。どこを切り取っても飾りたくなるような美しい画面が多くて幸せだった。

 一つだけ最後に。その手の知識がないので語るのも憚られるのだが音楽に少し触れておく。この映画は全体的にセリフが少ない。ベラが未発達な序盤は特に。そこで使われているのは弦楽器のシンプルな音楽。同じフレーズを繰り返すような?もので音の長短や高さで雰囲気を繊細に表現していた。音の連なりではなく、選び抜かれ、研ぎ澄まされた一音の輪郭を繰り返すことで伝えてくるような……(あくまでこれは私の感想です)
 例えば、幼少期のベラが館で暮らしている場面。成人女性がまるで幼児のような動きをする。穏やかで少しヘンテコなその日々はシャボン玉のような柔らかい円を描く音。無邪気ながら七色に光るような不思議さを正確に演出する。
 一方で博士やベラの一見非道徳的にも見える解剖や実験の数々。脳みそを切り刻んだり、フォークで目玉をついたり、低い弦を強く弾いて大きな弧のような音でその異様さと衝撃を伝えてくる。
 なかなか不協和音とも捉えかねない音もあるのだが、映像とともにそれすらも使いこなしている。間違いなくこの映画の手触りを確かなものにしていた要素だと思う。

 なかなかな長文になったが、読んでくださった方がいたのならとても嬉しい。
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