つまり引きこもりたい
子どもたちが不登校で
私は仕事を辞めざるを得なくなり(自分の体力精神力の限界)
家にずっといた頃
それはそれで楽しかった
昔読んだ「大草原の小さな家」のように
料理の工夫をしてみたり
友達を家に呼んでみたり
働いていては出会えないような人との出会いをしてみたり
私もこういう生活を望んでいたのかもしれないなと
あの頃は自覚していなかったけれど
今振り返ってみると、そう思う
それでも、子どもが学校に行かないことのハンデはとても大きくて
ここんとこ、Xで「不登校が増加した」ことによる「不登校児の親のポスト」がとても多くみられることからわかるように
決して「不登校はバラ色ではない」
20年前も「不登校の子どもはたくましい」だの「別に学校に行かなくたって働ける」だのさんざん「学校に行ってる子どもの親」から言われたものだ。安心させてくれようとしているのはわかった。
でも「そういうことじゃない」のだ。
・給食を食べてくれたら、昼ご飯の心配をしなくていい
・学校で勝手に授業が進んでいれば、親が学習の手助けをする必要がない
・行事で色々な経験を積ませてくれるから、親がお金をかけて連れ出す必要がない
こういうメリットを受けている人たちから「不登校でも大丈夫」と言われると本当にもやっとした。
学校とうまくやっていける子どもであれば、親はあらゆることを学校に丸投げできているのだ。
それでも、子どもが学校を「つらいところ」「行くと悲しくなるところ」だと思ってしまい、身体が動かなくなってしまったのだから仕方がない。
子どもの身体と魂を守るのが親の仕事なのだ。
学校がその親の気持ちに気づくことはなくて、「家が居心地いいからいけないんだろう」と批判してみたり「不登校を受け入れますよ」とただ賛同するだけだったりするのは、教師の人手不足だの過重労働だのとあとから言われたところで、子どもの子ども時代は終わってしまうので、あまりにも無責任だなと思っていた。
子どもも親も、社会から「頑張らされ」すぎている。
全部がうまくいく人間がこの世の半分もいるだろうか。
たまに、「周りに助けてもらって、子育て何もしなくてもうまく育ったわ」という人もいるけど、前世のカルマのおかげか何だかわからないんだけど、「よかったですね」とその運を認めることしかできない。
不登校親にもそういう人はいるし
だから、もう、不登校なんて共通言語でもなんでもなく
共通するのは「学校に行けない」ことだけなのだから
学校が問題であることだけははっきりしているのだが、
学校はいつまでもそれを認めようとしない。
男は働きたくないと思っていて
女は育児も家事もしんどいと思っていて
子どもは学校がしんどくて
いっせーのーでで
みんな休もう?
とか思ってしまう。
いったいぜんたい、何が私たちをこんなに急かしているのだろう。
病気になってまで。
食べるものの値段がどんどんあがってまで
引きこもってしまいたいのは、子どもだけではないだろう
少しでも息がしやすい世界に、自分からしていこうと思う
★「りすんと♪」というひとり活動をやってます
人の話を聞く、自分の身体の声を聞く、セルフケアを広める
自分の声を大切にする、心の声に従ってみる
そして、人に意地悪したくなる気持ちが減ることを
願っています