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読書・山田太一「その時 あの時の今」


山田太一は 早稲田大学・教育学部卒だが
同窓に寺山修司がいた。

二人は本当に仲が良く
寺山がネフローゼで休学、入院すると
山田は頻繁に見舞いに行ったが
寺山の母から
見舞いを控えるように言われ それからは手紙のやりとりをした。

寺山の死去から 32年が経過した2015年に
このとき二人が交わした書簡や 寺山の日記を収めた
『寺山修司からの手紙』が
山田の編集により刊行されている。

          〇

寺山修司

旧友、寺山は 八千草薫さんがもの凄く好きで
「いいね、あの唇」
なんて言っていた。

実は僕だって 負けずに好きだったんだけど
しかし「他と異ならんとする情熱」に燃えていた頃で
人の後から「オレも」などと言うことを
潔しとしなかった。

そのうち彼が
「年賀状を出したら 返事が来たよ」
と言って 葉書を見せた。

「なんだ印刷じゃないか」と思ったが
当然のことながら 宛名は印刷ではない。
「この筆跡はきっとマネージャーだな。代筆だよ。
 あのスターがじきじき筆を持つもんか」
僕はケチをつけながら 嫉妬で胸が痛んだ。

嗚呼、なんと長いこと 八千草さんは
美人であり続けていることだろう。
こういうのが 本当の美人であって
17、8のときだけ 美しいなんてのは
人をたぶらかすだけのものだ。

それなのに後年、
世界の映画スターの誰を持って来ても、
たとえ ジャクリーヌ・ビゼットや キャンディス・バーゲンが
膝すり寄せて来ても
八千草さん以外はお断りと思って お願いした
『岸辺のアルバム』のヒロインを
「嫌だ」と言っていると プロデューサーが言うのです。

これは悲しかったな。

でも結局、僕が直接お逢いし
なんとか承知して頂きましたけど

結果は期待通りの 素晴らしさで
誰もが八千草さんを 讃めたたえ
ついでに僕も讃められた。

 「岸辺のアルバム」

          〇

大学卒業後、山田は松竹大船撮影所に入社。
その3年後、吉田喜重から 木下恵介監督を紹介され
『永遠の人』から 助監督についたが

次の作品『今年の恋』では
シナリオの口述筆記を命じられた。

口述筆記のとき、木下監督はいつも
自宅だろうと 旅館だろうと
布団を敷いてもらい 寝転がってやる。

その脇にお膳や 炬燵を置いて 山田が座る。
「綾子台詞、お早うございます」と言われると
山田は原稿用紙に 
綾子「お早うございます」と筆記する。

監督は一度、口にした台詞を訂正することは
ほとんど無かった。
これはもう、天才的としか言いようがなかった。

以後、木下脚本の口述筆記は
山田がこの4年後に 松竹を退職するまで続いたが
これは非常に恵まれた経験だったという。

松竹退職後、山田はフリーの脚本家になったが
木下監督もテレビ界へと移行し
二人の師弟関係は続いた。

そして木下に
「連続(ドラマ)を書いてみろ」と言われ
はじめて執筆したのが『三人家族』で
これが高視聴率をあげた。
はじめて「テレビは面白い!」と思ったという。

「三人家族」

1976年 NHKは
脚本家の名前を冠にした "脚本家シリーズ"を開始したが
その第一回が "山田太一シリーズ"で
作品は『男たちの旅路』だった。

          〇

笠智衆さんほど 敬愛する俳優さんはいない。
僕は『冬構え』『ながらへば』『今朝の秋』などの
主演作品のほか 何作かに出て頂いているが

自分が助監督として 7年間勤務した
松竹の大先輩であり
小津作品、木下作品の 数々の名作中の人物であった笠さんが
自分ごときの作品に出てくださるとは・・・

松竹で 新参の助監督だったとき
出番待ちの笠智衆さんを 呼びに行ったことがあった。

笠さんは佐分利信さんと ステージの外の
石油缶の焚火にあたっていたが
それはもうお二人とも 実に「絵」になっていて
声をかけて壊してしまうのが 嫌になったものだ。

「ながらへば」

          〇

☆高原へいらっしゃい
☆沿線地図
☆獅子の時代
☆思い出づくり
☆ふぞろいの林檎たち・・

とてもとても、数えきれませんが
大ヒットした連続ドラマ以外の
地方局制作の単発ドラマにも
忘れがたい珠玉作品の数々ありました。

また『異人たちとの夏』などの小説や
舞台の脚本も書かれ
膨大な作品を 発表し続けた山田太一さん。

2023年11月に 89歳で亡くなられました。
たくさんたくさん、愉しませていただきました。






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