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有能な上司になる前に。あるいは無能な上司に当たってしまったときに。

「完璧な人間なんていない」という言葉はおそらく普通の日本人の成人なら何十回何百回と聞いてきた言葉かと思いますが、一方で「人間だからこそより完璧に近づく努力を」、「自己成長を」という気概で物事に取り組み、「完璧な人間なんていない」という言葉をサボりとビビりの言い訳にしたくない、と考えるのも人間らしさのような気がします。


堅苦しさはしばしば不都合を生みますが、高評価を受けやすいその業界そのものの構造をわきまえずに、教育業に就いていながらも傲慢に振る舞う手合いの人間に成り下がるよりはよっぽどましです。


と、偉そうに垂れていますが、そういう私も奢っていた時期がありました。

「こんなやり方はおかしい」という意気込みでその業界に飛び込んだものの、数年後、その業界にどっぷりと浸かっていつの間にか他ならぬ自分自身が「こんなやり方」を遂行していることになる、というのは教育業に留まらない人間界のあるあるでしょう。


私自身はこれを会社員時代に経験し、自覚しました。


以前の記事にも書いたかもしれませんが、20代後半から30代前半の私のチンケな自慢に、たかだか2部上場の中小企業でのことですが、アルバイト入社から一年後に社員登録、と同時に本社に次期本部長候補として栄転したことがあります。


さらにその半年後、他の候補者との出世レースを見事勝ち抜いた私は晴れて本部長に昇進するという、アルバイト入社から実に一年半でのスピード出世を成すわけですが、その評価基準となったものは多くの企業と同じく「営業成績が良かったから」というものでした。


「営業能力と(班長、主任、本部長など)人の上に立つ資質や指導力は別物」という本質には気づかずに、私は自分を優秀な責任者と思い込んでしまったという痛々しさもありますが、それ以前に自分が前本部長の補佐役だった時に彼にやられて嫌だった、偉ぶりたがりや過度な自己主張を、自分が本部長になる直前の時期に見事にやらかしてしまいました。


そもそも教育業に就こうとする人、人に何かを教えようとする人というのはある程度自尊心が高く親分風や兄貴風を吹かせたがる傾向があります。

また我が強いこともあります。


そんなタイプの人間が自分の教え子より人間的に(何を持ってかはひとまず置いておいて)優れている保証はどこにもなく、また教え子より魅力的な人間である保証もありません。


親子の関係ですら(私は宗教家ではありませんが)生まれながらの徳に逆転現象があると言います。

親だからといって子より人間的に優れているわけではないということです。


これを踏まえて私は付き合い始めのかなり早い段階で教え子たちには

「素直で思いやりのある、これまでのうちの選手たちの様子から見ると、俺の徳の高さはクラブ内でちょうど真ん中くらい」

と正直に告白しています。


謙遜もしていないし不遜もない正直な感想です。

コーチだからといって、年上だからといって、指導者だからといって「完璧ではない」どころか優れてもいない、ちょうど中の中、フツーの人間だということを伝えているということです。


「キミら側から見て、俺の上手な扱い方は『ちょっと我がままで手のかかる妹』を扱うイメージで上手くいくと思う」

と取扱いのアドバイスもしてあげています。


後はそうならないようにこちら側が努力をすればいいだけです。


実際、長く生きた分、学習の時間を彼ら選手より取れているおかげで、感情をコントロールする技術的な方法を知ってはいます。

それを実践しているおかげでいい人間に思われることもありますが、あくまでこれは技術的な手法を用いてのもので根っからの、つまり生まれながら資質とは違います。


さらには「知ってはいるけどコントロールできない」状況にもしばしば陥ります。


というわけで、このように“その業界での経験が浅い者”には「勘違いするなよ。経験が長いせいで業界の事情には詳しいが、おまえより出来た人間だというわけではないからな」という態度を示すわけであります。


つまり選手に「この人は自分たちよりサッカーの指導に優れている」だけの人である可能性をきちんと分からせておくということです。


反対に自分が(サッカー指導に専念するようになってからのここ十数年は幸い経験していませんが)嫌みで徳の低い上司を持ってしまったときには、「年上だから」「役職が上だから」「会社での実務経験が自分より長いから」人間的にも自分より素晴らしいはずだ、という思考停止評価には陥らず、そのダメな振る舞いに対して「もうほんっと仕方がないなあ」のお兄さん目線で接してあげよう、くらいに思っています。

もしこれを読んでいるあなたにも嫌いな上司や先輩がいるときにはぜひお兄さんお姉さん目線で優しく優しく接して、その上司が少しでもいい人間になるように育ててあげてください。


ところで話は変わるようで実は変わらないのですが、私はドラマ半沢直樹の(最初のシリーズの)最終回を観たときにちょっと心の中にモヤっとした気持ちが芽生えました。


最後の最後にどんでん返しで主人公が不遇の目に遭うところで、ではなく、宿敵に土下座をさせるシーンで、であります。

理由は私も似たような経験をしたことがあり、そしてそれを反省した過去があったからであります。


長くなるので諸々割愛しますが、「ミスは部下のせい、手柄は自分のもの」を地で行っていた私の前の本部長はある日、自分のミスのせいで私たち補佐役の直属の部下にだけではなく、末端の社員全員にまで余計な仕事、それも膨大な汚れ仕事を課す理不尽をします。


理由もなく急な汚れ仕事を回された社員たちは当然不満を漏らすわけですが、そもそもこの「理由もなく」になった経緯には、彼が自分のミスが原因でそうなったことを我々直属の部下にも隠していたから、というものがありました。


その隠ぺいが発覚してから我々「時期本部長候補」には言い訳をがましい説明をして責任をまた転嫁しようとしていましたが、それで我々部下の不満や怒りが収まるわけではありません。


そしてその日の仕事が終わってから全員が後始末のために残業していた夜遅く、私の直属の部下でもない社員たちも含めて、彼らからさんざんと正当な苦情を言われた私は中間管理職にとって最も大事な役割の一つ、クッション役を放棄して、会社に残っていたその本部長に30人ほどいた社員の前で説明と謝罪をさせました。


本人のいないときにはかなり強気なことを言っていた社員たちも謝罪の前には和らぎます。

テレビで見る記者会見とは大違いです。


がしかし「謝ればOK」の日本的慰謝の観念が好きになれない私は、土下座をさせたいとも思っていなかったし実際そこまではさせませんでしたが、それでもポケットに手を突っ込みながら上から目線の謝罪という何ともわけのわからない態度に対して

「まずはポケットから手を出して」

とたしなめて、もう一度深々と詫びを入れさせた後、余分な汚れ仕事を部下たちがしなくて済むように社長の稟議を取ることを約束させました。


まずはきちんと謝らせて、そしてなお「謝ればOK」を許さなかったわけです。


その後、本部長は一人で屋上に向かい、泣きながら彼のさらに上司である事業部長に電話をします。


そして深夜過ぎにその事業部長が会社にやってきて、私は会議室で二人で話をすることになるのですが、このときに彼に言われた言葉が、前述の私の考えに繋がっています。


事業部長は大急ぎで駆け付けたのでしょう、寝巻代わりにしているのであろうサッカー日本代表のジャージ姿でした。


「まあ、おまえが怒るのも分かるけどさ。年も向こうの方が上だし上司だけどさ、おまえの方が人間的には上なんだからお兄さんになってあげないと」

と彼は言いました。


「じゃあそんな人間を俺の上司にするなよ」

とも思いましたが、そもそも離職率が高いその当時の本部の現状をどうにか打破しようと、その事業部長が

「もう本部で育った人間をそのまま本部長にするのはやめる。これからは外(の支部)から来た人間をトップにする」

という思惑があっての転勤の辞令であることを、転勤前に私がいた東京事業所の責任者から聞かされてもいました。


この話は「上司に媚びを売らずにガツンと言ってやった」という美談に変えることもできますが、そもそも週刊少年ジャンプで育った我々氷河期世代には「弱きを助け強きをくじく」任侠気質を、あるいはそれに対する憧れを持ちがちです。


半沢直樹があれほど指示されたということは、世代に関わらず我々日本人にはそもそもそういう気質があるということなのかもしれません。

考えてみれば忠臣蔵も超ロングセラーです。


ちなみにその後、この前本部長は2回ほど左遷され、私は事業所全体の半期の営業成績が全国トップになりまた出世するという昔話のような続きがありますが、彼とは本社で再会し、そして邂逅します。


この話は、そういう立場にならなければ彼に優しく接することができなかった私の徳の低さを表わしていると同時に、「あなたが無能な上司に厳しく当たらなくても、よほど無能な会社でない限り誰かが見てくれているよ。どうせ能力相応の結果に落ち着くよ」という教訓も示しています。


デンマークの哲学者だったか作家だったかが言った「10ヶ条のルール」的な教訓の一つに「自分が人に何かを教えられると思うな」という内容のものがあります。


うろ覚えですが、他の9つも全て基本コンセプトは「思い上がるな」的なもので、謙虚さと自己否定を前面に押し出している感じがして私自身はこのルールを好きになれずに実践していませんが、代わりに年齢や立場に関係なく「教えてもいるし教えられてもいる」という意識を、教育の現場に立つにあたっては大事にしています。


私と違って全ての人が「ちょうど真ん中レベル」の徳の高さを持っているとは限りませんが、特に所見はこれくらいの気持ちで接すれば上司の無能さに憤りを覚えたり、逆に追い詰めて泣かせてしまったりすることがなくなるのではないでしょうか。

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