30歳大人がミヒャエル・エンデの「モモ」を読んで
あらすじ
町はずれの円形劇場あとに迷い込んだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話をきいてもらうと、幸福な気持ちになるのでした。そこへ、「時間泥棒」の男たちの魔の手がしのびよります・・・・・・。「時間」とはなにかを問う、エンデの名作。・小学5・6年以上
読み終えた時、モモの多くの読者がかんがえるであろう、「時間」についてわたしも考えてみました。
時間=人生ですよね。
過去もこの瞬間も未来も、時間が重なって人生になってる。
人生無駄にできない、時間無駄にできない。
自分の過去を振り返ると、なんであんなことに時間をつかっていたんだと思うこともしばしばです。でも、その時ってれが大切だと思ってやってたでこともある。一概に無駄だったとも思えない。その時はその時で、その時間を楽しんでいたような。
なにを言っても、過去を振り返ってもその時間は絶対に戻ってきません。
今、この瞬間私は文字を打ってるけど、これもいま私がやりたいことだから。1年後、振り返った時、あーなんで、文のド素人が文か書こう、発信しようっておもったや、あほらしいって思ってるかもしれへん。
でも、もしかしたら、あの時、note始めてよかったって思えるかも。
未来のことは誰にも分らない、予想しかできない。だから、楽しみでもあり、不安でもある。
いま、多くのことが自動化されており、携帯があれば、昔はできなかった多くのことができるようになった。
時間は生まれているはずなのに、大人たちはあくせくしている。まるで、モモに出てくる、大都会の大人たちのように。
「時間がない。」「時間さえあれば、これも、あれもできるのに。」
私が東京で働いていた時、こんな感じでした。
コンビニで並んでいる時も、足を貧乏ゆすりをする人、まだ前の人の会計は終わらないのかというそぶりで前をのぞく人、早くレジ打ちができない店員さんに大きな声で怒鳴るひと。
歩く人たちの足取りははやく、我先にという感じ。
通勤ラッシュで電車から、出るときのみんなの殺気といったら、すごいです。2度くらい、当たったあったてないで、朝から、大きな声で、喧嘩してる場面に遭遇しました。
私はこのあくせくした社会から脱落した人間です。でも、その中にいた時は、本当に必死でその世界しかみえなかったというか、そうあるべきなんだという感覚でした。
家と仕事の往復、家事、勉強。毎日が、滝みたいにダーーーーーーーーっと流れ落ちていくようなそんな感じでした。
そして、家事の時間を減らすために、いろいろ調べてみたんです、ビジネスyoutuber の方が、いろいろ教えてくれました。
料理をする時間がもったいない、料理はしなくていい。今はコンビニで三食生きていけますよね。しかもおいしいんです。確かにそうだ。
洗濯、洗濯干し、洗濯ものをたたむの時間がもったいない、洗濯乾燥機もお金を出せば買えます。たたまなくても、ハンガーにかけておけば、折り目もつかないし、たたむ時間も省ける。確かにそうだ。
掃除の時間がもったいない。ルンバさんがいます。確かにそうだ。
家事代行という仕事もあるくらいです。この家事代行の方の仕事ぶりってお話でしか聞いたことないですけど、めちゃクオリティー高いって話でした。めっちゃ考えましたこれ。
でも、結局それらを実行する前に、あのあくせくした東京の生活から逃れたくて、仕事を辞めました。今は幸せなんです、本当に。主婦よりも仕事してる方が、幸せって聞くけど、仕事辞めて半年くらいたつけど、今の方がずっと幸せ。
自動化された社会を批判しているのではないんです。むしろ感謝です。
ただ、時間の使い方、時間に対する考え方って人それぞれですよね。なんか、正解がないというか。
でも、モモの中に出てくる灰色の男たちが、大人たちの時間を奪って、大人たちの心がすさんでいく姿が、今の東京にも見えているそんな気がしてならないんです。
だから、こうするべきだってのもないんやけど、悲しい気持ちになります。
私は私なりに、未来に思いをはせながら、不安より、希望を抱いて、今、与えられたこの時間に感謝して、不満や不平を言わずに生きたいです。
ミヒャエル・エンデありがとう。
今日も素敵な一日を。
高校生の頃「あーもう、学校行くんめんどい。休みたい、勉強ホンマいや!やってもったても、伸びひん。」
大人「じゃにすも大人になったらわかるわ。あーもっと勉強しておいたらよかった。」といいます。
30歳になった今、私は思います。心の底から「あーテストのために必死になって勉強してたけど、テスト終わったら忘れるあんな、浅い知識じゃなくて、もっと教養として使える知識を勉強しておけばよかった。もっと深く、深く勉強すればよかった。」と。