アナーキスト人類学の為の断章より
私のハンドルネーム、Janeさんの由来、、、英語のJane Doe。
(Jane Doe(男性はJohn Doe) というのは田中花子、名無しの権兵衛、身元不明死体…などなど"誰でもないただの人"という意味。)
匿名が氾濫するネット上で使うにはぴったりの名前で、私の信念である"肩書きや立場を脱ぎ捨て、ただの人しての在り方を問う事、そして"人間は生きているだけで尊重される存在"という主張に沿う呼称なのですが、息子が読んでいる本、グレーバーのアナーキスト人類学のための断章の訳者の後書きにあった興味深い考察が私とリンクしたとの事。
"群れと群衆は違う"
…群れは群衆のように一定の原理によって統合された、一方向に向かう人びとの集合ではない。群衆はそのまま国民国家に所属し、あるいは一階級を構成することもある。
それに対して群れは群衆と常に矛盾し対立するものではなく、それを構成する部分となる時と場所もあり得るが基本的に別の原理によって形成されている(たとえば狼の‘群れ’を想起してもらえればいい)。それはあくまでも適度に少数のグループで、優柔不断、機動力に長け、現代都市の様々な行動原理に符号している。しかし同時にどこか不安定で、頼りなく、また‘いかがわしさ’を臭わせている。その集合性がそのまま大会社の社員になったり、軍隊に徴用されたりすることは決してない。‘群れにも群衆にも一様性は存在せず、またどちらにも階層性が存在する。しかしそれらは同じものではない。群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負を賭ける、つまり彼は一手を打つたびにすべてを荒田に賭け直さねばならないのだ。これに対して団体や群衆のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化資本化するのである。’加えて無視できないのは、‘群衆’の次元と‘群れ’の次元における‘個人’の位相の違いである。‘群衆’において個人は、あくまでも正式名称で呼ばれるだろう。つねに役名や親からもらった固有名で呼ばれ、集団への帰属が逐次再確認されるだろう。だが群れにおいては役割は刻刻変化するだろうし、ニックネームで呼ばれてもかまわない。あるいは自分で好きな名前を勝手に作ってしまう。‘群れ’の中で、人はより生々しく‘個=単独性’として生成する。
具体的には‘群れ’とは、ゲットーの巷のデリにたむろしてビールを飲みゲームをする仲間であり、少年ギャング団の徒党、グラフィティの一潮流、小ベンチャー企業、あるいは単なる友人たちのネットワークでもある。アクティビストの‘類縁グループ’とは´予示的政治‘の実践において、このような友愛=共感関係をあらためて方法化したものとみなすことができる。北米において有名な’異教的アナーキズムの活動家スターホーク‘は’類縁グループとはお互いに共感を持ち、お互いの強さも弱さも知り、支えあい、そして政治/活動をやる(やろうとする)グループである。‘と言っている。…
😳❤️
あら!まさにコレ、私がやってる事じゃないですか❣️
Cuddleも❤️コモンズなだも❤️子どもの声を聞くプロジェクトも❤️西宮の教育を考える市民の会も❤️全国の同志と繋がって行っている様々な交流も❤️
強制ではなく、友愛と共感の関係✨✨✨お互いの強さも弱さも知り、支えあい、そして政治/活動をやる(やろうとする)グループ✨✨✨
群衆は時に思考停止のまま、過ちを起こしがちだけど、群れはどこか流動的で、でも主体的で確かに繋がっていく✨✨✨個を大切に出来る。
何かと話題のグレーバー(残念ながら昨年逝去されましたね😢)の著書の中の、エリアスカネッティの群衆と権力からの引用でしたが、読み込みたい2冊📚
"私じゃなくても、誰でも出来る市民活動を啓蒙したい"なんの取り柄もない、地位も名誉も肩書きもないJaneさんがこれからの若い世代にも次々生まれ、仲間と繋がって大きなうねりになり、価値観の、主義の大転換を巻き起こします様に✨✨✨