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子どもが死ななくてもいい社会に


息子が大学生の時に書いた作文があるねんけどね👇本人の了承を得て載せます🙏

ポンコツ先生、東大生やったんよ笑笑


私の義母、数年前に他界したんやけど、若年性アルツハイマー病で長年闘病してたの。


義母を長年見てた息子は、病気や障がいを持つ人たちの、人権を軽視する社会の動きにすごい憤りを感じてた。


「病気は自己責任」なんて、訳わからんことを言い放つ政治家や、
(仮に不摂生って事が言いたいんなら、だから何?やし、不摂生になってしまう、その人の人生の背景には必ず社会問題がある。【パーソナルイズポリティカル!』〜ドラマ御上先生語録)

『人工透析患者を殺せ」と主張する論客までいる世の中に、若者は「変えたい」と言葉を綴ったんやね。

「自分は生きていていい」と誰もが思える社会をつくりたい。

これ、わが家の家訓みたいなものでね。単なる福祉の問題を超えた、根本的な人間社会のあり方への問いが込められてる。

「役に立つ」ことの価値?


社会では、「役に立つこと」が強く求められる。学校ではいい成績を取ること、会社では生産性を上げること、家庭でも「ちゃんとできること」が当たり前とされる。ちゃんとって何なんやろね。

けれど、もし「役に立つこと」の意味が、生産性や貨幣労働の枠組みの中でしか測られないとしたら?

義母のように病気を抱えた人はどうなるの?

「社会に貢献できない」と生きる事を否定されてしまうの?


病気や障がいを持つ人、今何か苦しい渦中にいる人たちに対する社会のまなざしは、よく「支えるべき存在」や「迷惑な存在」「劣った存在」として語られる事があるけど、もっと根本的な問題がある。


そもそも、「既存の枠の中で役に立つかどうか」で人の価値を測る社会のあり方自体が、人の尊厳を傷つけるものになってないか?子どもたちをそんな眼差しで見つめてはいないだろうか。

障がい者だから優しく、とか、差別してはいけません、とかの欺瞞を子どもたちは感じ取ってるよね、きっと。

言葉が社会をつくる


息子の作文には、国語教師が軽い気持ちで「アルツハイマー」という言葉を自嘲的に使ったことへの違和感が記されてる。当人に悪意はなかったんやろうとは思うけど、「それを聞いた患者家族はどう感じるだろうか?」とある。

言葉は単なる道具じゃない。社会の意識を形作る。病気や障がいを軽んじる発言が許される空気は、「生きていていい命」と「そうでない命」を分ける価値観を生み出してしまう。歴史を見る限り、そして今でも実際にそんな現実を目の当たりにする。


政治家の問題発言がなぜ問題なのか…単なる過激な言葉の使い方?その差別的な思想が問題?

「生産性のない人間は生きる価値がない」…現代社会の深層意識を可視化してしまっているよね。現代人が持つ闇の部分。それはつまり、発しているその本人が意識もしていないであろう、「自分や家族が生産性がなくなれば、必要とされない。必要とされないなら生きていたくない」って内面化された呪縛に取り込まれているからじゃないんかな。

この社会の枠組みの中で、優位に立つ者、権威ある人々は、優位に立っている事の責任を持っている事を自覚して欲しいのと、その人たちが「出来る人だからそこにいていい」んじゃなく、「役に立っているから、優しいからそこにいていい」のでもなく、「あなたがあなただからそこにいていい」んだってこと知ってほしい。

弱者に自己責任を押し付け、自分の弱さを隠す前に、自分の傲慢さや弱さと向き合う学びを自身に課してほしい…ほんま大丈夫やから。

息子の「まずは言葉を意識することから始めてほしい」は、そんな大人たちの囚われた思考を一度問い直してほしいって訴えてたんやろうなぁと思う。

メメントモリ
「死を想う」事が生を変える


「メメントモリ(死を想え)」という言葉があるけど、死を意識することは、「今をどう生きるか」を問い直すことでもあるんよね。

義母の闘病生活を長年見ていた息子は、もしかすると無意識にこの問いを突きつけられていたのかもしれない。

喋ることも自分で食事を摂ることもできず、寝たきりになっても、義母は確かに「生きて」そこに「家族の一員として」存在していた。幼い孫が話しかけると、表情が緩むこともあった。義母の葬儀では、家族はもちろん、ヘルパーさんも、昔からの友人さんたちも涙した。

その姿を通して、「生きることに意味があるかどうか」を問うこと自体が無意味であることを、息子も私も感じ取っていたのだと思う。

「役に立たなければ意味がない」という空気感の中で、病気や障がいのある人の生は「無駄なもの」とされてしまうかもしれない。でも、「死を想う」時、その考え方の脆さに気づくはず。

生きることに「意味」なんて必要ない。
人はただ「生きている」だけで十分。

「生きていていい」を超えて「生きていたい」と皆が思える社会へ


息子の作文の最後の一文、
「自分は生きていていい」と誰もが思える世の中を作りたい。

生産性を求められ、常に「何かをしなければならない」と追い詰められている私たち自身にも向けられたメッセージじゃないかなと思うんよね。


「何もできなくても、何かやりたくてやっていても、ただそこにいるだけでいい。」
「あなたに、いてほしい。」

そう言い合える社会が、本当の意味で多様性を認める社会なんじゃないかな?

「生きていたい」と思える社会は子どもたちの笑顔で溢れてるはず。

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