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読むに読めない無意味な史料(勝手にリレーエッセイ2023春 #4)

イトーダーキさん主催のリレーエッセイに参加することとした。2度目の参加である。
今回、イトーダーキさんが参加者たちに課したテーマは「有意義で無意味」。

推察するに、ChatGPTの出現によって人間が文章を書くことの意味が失われつつある世界において、AIには容易に書けなさそうな自己矛盾的なテーマを選び、AIと人間を競わせようということであろう。

第0走者であるイトーダーキさん自身が、肩透かしのような、まさに「有意義にして無意味」なエッセイを書かれた。

第1走者の三毛田さんは「最強の湯」と題して、ほろ苦いエピソードを披露され、

第2走者のBenBenさんは「無償の愛と無償のAI」と題して、「有意義だが無意味なものとは、親の子に対する愛情ではあるまいか」とのテーゼを提示され、

第3走者の潮永三千萌さんは「つーちゃんの赤いメガネ」と題して、ネタバレになるので一切感想が書けないとんでもないエッセイをお書きになった。

これら3人が引き継いできたバトンを受け取った私は、はて何を書くべきか。
やることは決まっている。歴史上の人物で「有意義だが無意味」な業績を残した人を取り上げるのだ。

はて、これは難しい。歴史上に「有意義だが無意味」なことなど存在するのだろうか。
などと考えながら家の本棚を漁っていたら、ある本に目が留まった。
佐野眞一『枢密院議長の日記』である。

これは、大正・昭和初期に枢密院議長を務めた官僚・倉富勇三郎が残した日記を、ジャーナリスト・佐野眞一が必死に読み解いた成果として書かれた本である。
この倉富勇三郎の日記こそ、「有意義で無意味」と呼ぶにふさわしい。

倉富勇三郎の長大な日記

倉富は1919年から1944年まで、26年間に渡って日記を書き続けていた。その量は大学ノート297冊
多い日の執筆量は、1日で四百字詰め原稿用紙50枚を超える。日記執筆に毎日2時間程度はかけていたのではなかろうか。

一体倉富は何を目的にかくも長大な日記をものしたのだろう。
いや、それを問うのも野暮というものだ。意味など考えていなかったのだろう。習慣とはそういうものだ。

あまりの分量に、多くの研究者がこの解読に立ち向かいながらも断念して来た。
ジャーナリスト・佐野眞一は7年かけて、その10パーセント程度をどうにか読み解いたという。

倉富日記の有意義な部分

この日記がいかに有意義な内容を現代に伝えているか、紹介しておきたい。
例えば1921年3月19日の記述には、歴史研究者にとって極めて重要な情報が含まれている。世に言う「宮中某重大事件」の最高機密が記されているのだ。

「宮中某重大事件」とは、当時皇太子だった裕仁親王(後の昭和天皇)の后に、久邇宮良子女王(後の香淳皇后)が内定したとき、
久邇宮の家系には色盲の遺伝子がある
などと主張して反対する勢力が現れた事件をいう。
こうした反対意見があったものの、裕仁親王と良子女王の結婚は結局実現した。

倉富の日記によると、このとき久邇宮家は反対勢力に対して金銭を給付して黙らせたという。しかしその金銭を給付した事実が、来原慶助というゴロツキのような男に露見してしまい、久邇宮家は来原から口止め料をせびられることになってしまった。
久邇宮家から相談を受けた倉富は、宮内大臣の牧野伸顕に相談して、
金銭は一切支払わない
という方針で意思決定をしたという。

これは大正期の社会史・政治史上極めて重要な事柄である。牧野の日記にも、他の政治家の日記にも一切記されていないトップシークレットであり、倉富日記の解読によって初めて明らかとなった事実だ。

倉富日記がいかに有意義な史料なのか、お分かりいただけたと思う。

倉富日記の無意味な部分

しかしながら、倉富日記は実に無意味だ。先程
「1日当たりの分量が四百字詰め原稿用紙で50枚以上」
とご紹介したが、なぜかくも長大になるのかというと、とにかく倉富が体験したことを余すところなく、重要・些末の区別なく全て書き記すからだ。

例えば、久邇宮家から相談を受けた倉富が、宮内大臣の牧野に連絡を取るところはどのように記述されているのか。

倉富日記は、まず午後5時過ぎに宮内省の酒巻事務官に電話を入れ、
「至急、牧野大臣に面会したい」
と伝える場面から始まる。
宮内省から車を出してもらって、倉富はその車で宮内省に向かう。
しかし宮内省に牧野はいない。

倉富「牧野大臣の所在はわかったか」
酒巻「先ほど大臣のご自宅に電話したのですが、今夜は外出の予定だそうで、出先は明言しませんでしたが、問いただしたところ、新喜楽(注:築地にあるレストランの名前)に行くことになっているようです」
倉富「ではもう一度電話して、倉富が至急面談したいことがあるので、出先に行ってよいかどうかを問い合わせ、返答するよう伝えてほしい」

このような些末なやり取りが全て日記に記されているのだ。

その後の経緯については、日記の現代語訳をお読みいただこう。

酒巻は牧野宅に電話し、私の意図するところを伝えてくれた。
待つこと30分、牧野家から電話は来ない。
酒巻によると、牧野家から宮内省総務課に電話が来る手筈になっているらしく、酒巻は総務課に行って
「電話は来たか」
と聞いてくれたが、
「まだ来ていない」
とのことであった。
私はもう一度牧野宅に電話するよう酒巻に命じた。
酒巻は再び総務課に行って、電話が来ているかどうかを尋ね、来ていないことを確認してから、再び牧野宅に電話した。
牧野宅の家人は、
「出先に電話したのですが、牧野はまだ到着していないとのことでした。牧野が先方に到着したら、すぐに連絡させるようにします」
と答えたという。また、牧野の行き先は新喜楽で間違いないとのことであった。
私は酒巻に命じて新喜楽に電話させ、牧野が既に来ているかどうかを問い合わせた。しかし牧野はまだ来ていないとのことであった。
今夜の予約時間は6時30分だということが判明した。その時点ではまだ6時であった。
私は酒巻に対し、
「私はこれから家に帰るから、牧野が新喜楽に到着したことを見計らって電話して、『倉富が明朝8時に牧野宅を訪ねてもよいか』と聞いてみてほしい。その返事を私の家まで電話してほしい」
と話し、その日は家に帰った。
帰宅後、7時頃に酒巻から電話があった。
「新喜楽に電話したところ、牧野大臣の秘書が出て、『明朝大臣の家に行っていただいてもよいが、むしろ今夜中にこちらに来られる方が便利ではありませんか』とおっしゃいました。どうされますか?」
とのことだった。
私はそれを聞いて
「ではこれから新喜楽に行こう。直ちに車をよこしてほしい」
と言って、宮内省の車で築地の新喜楽に向かった。

倉富勇三郎の日記 1921年3月19日(現代語訳)

何とまあ、無意味な記述なのだろう。
万事がこの調子なのだ。この日記から本質的な箇所、つまり意味のある箇所を抽出する作業はあまりに骨が折れる。

この後、倉富は新喜楽において牧野大臣と対面し、
「脅迫者に対して金銭は支払わない」
との方針を決定するわけだが、日記にはそこだけ書けば良いではないか。なにゆえ、牧野へのアポ取りやすれ違いを延々と書き記すのだこの人は。無意味すぎる。

「このような重要な情報と些末な情報の区別ができない人物に、まともな仕事ができたのだろうか」
と疑問に思うところだが、倉富は数多い官僚の中でも枢密院議長まで上り詰めた人だ。
あくまで日記は趣味の領域として何でも書き記しただけであって、通常業務は高いセンスで処理していたのだろう。きっとそのはずだ。

というわけで、歴史ネタに持って行ってみました。
「有意義で無意味」
テーマが難しすぎます。
AIには書けない、検索できないエピソードをこれからも紹介し続けたいと思います。

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