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30年日本史00999【南北朝前期】直義引退

これで第999回です。南北朝時代に入ってから、ストーリーの進みがだいぶ遅くなりましたね。

 御所巻以降、師直の権威はますます高まりました。直義に従っていた武士たちは、ことごとく居場所を失いました。
 特に怒りを爆発させたのは、直義の養子である直冬でした。直冬は前述のとおり尊氏の実子ではありますが、尊氏から忌み嫌われ、直義が養子として引き取った人物です。
 直冬はこのとき長門探題(中国探題ともいいます)として備後国の鞆ノ浦(広島県福山市)にいましたが、これを警戒した師直は、正平4/貞和5(1349)年9月13日、杉原又四郎(すぎはらまたしろう)に命じて直冬を攻撃させました。
 直冬は今にも討たれるところを辛くも逃れ、肥後国(熊本県)に落ち延びていきました。肥後に到着した直冬が
「梓弓 われこそあらめ 引きつれて 人にさへうき 月を見せつる」
(私だけでなく家臣にも憂き月を見せてしまった)
と詠むと、家臣たちは涙を流したといいます。
 さらに肥後に到着した直冬に、なんと長門探題を解任されたとの知らせがありました。今や人事は全て師直の思うがままなのでしょう。しかし直冬はこれを受け入れず、幕府に武力で対抗することを決めました。さらに9月28日には尊氏から
「出家を命じる」
との指示が送られてきましたが、直冬はこれも無視しました。
 直冬はここ肥後国から、直義党として幕府に対抗する勢力を蓄えていき、後に九州の尊氏党を悩ませる一大勢力として成長していくのです。
 さて、幕府は直義の後継者に指名された義詮を鎌倉から呼び戻さなければなりません。鎌倉を発った義詮は10月22日に、見事な馬や武具を取り揃えた豪華な行列で京に到着しました。まだ19歳ながら、尊氏・直義兄弟の後継者としての期待を一身に背負っての上洛でした。
 師直ら武士たちは、義詮の行列を瀬田(滋賀県大津市)まで出迎え、多くの者がそれを見物したといいます。
 10月25日、直義が住んでいた三条殿に義詮が入居しました。これ以後「三条殿」は義詮を意味する言葉となります。
 一方、三条殿を追放された直義は、尊氏家臣の細川顕氏の館に移され、監視を受けました。12月8日に出家させられ、恵源(えげん)と名乗ることになります。政界からの完全引退です。

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