戦士王列伝①ノルウェー王オーラヴ1世
中世前期の欧州北部は Warrior King〈戦士王〉の時代でした。
王の力はまだ万全ではありません。
「王」は地方領主の最上級クラスのようなもので、後世の絶対君主とは異なります。
領土を拡大したいならば力づくで奪う、弱肉強食の時代。
誰もがついて行きたいと思える武勇と人望を兼ね備えていなければ、王になることはできませんでした。ですから、王自身も勇猛果敢な戦士で、戦場では自ら最前線に立ち、兵を率いて戦いました。
そしてもうひとつ、王には気前の良さも求められました。戦場での働きぶり、勝利への貢献度に見合う報奨を与えてくれる人物が主君として望まれたのです。
今回取り上げるオーラヴ・トリュグヴァソン (Olav Tryggvason) は 960 年代の生まれ。サガによると、長身で美形だったそうです。
ノルウェー王としての在位は 995 ~ 1000 年と短いのですが、日本であれば大河ドラマにできそうな、大層ドラマティックな生涯を送った人です。
幼少期のオーラヴ
彼の数奇な運命は誕生時から始まりました。母の胎内にいた頃、ノルウェー南部ヴィークを治めていた父のトリュグヴィ王が従兄弟のハラルド灰衣王(エイリーク血斧王とグンヒルド妃の息子)に殺害され、母が少数の家臣を伴って親戚のもとへ逃亡する途中で生まれたのです。
その後、オーラヴは4歳までスウェーデンのエイリーク勝利王の温情にてスウェーデン国内で過ごしますが、ハラルド灰衣王と王母グンヒルドの追手が忍び寄ってきます。ノルウェー全土を手に入れたい彼らは、トリュグヴィ王の遺児を生かしておくわけにはいかないと考えていたからです。
追手から逃れるため、オーラヴは母アストリーズや養父ソーロールヴ、その息子ソルギースルとともにロシアのホルムガルズ(ノヴゴロド)で大公の高官を務める伯父シグルズ(母の兄)を頼り、ロシアへ向かいます。しかし、バルト海を渡る船がエストニアの海賊に襲われて、クレルコーンという男に養父を殺され、母と別々に奴隷として売られてしまったのでした(後に再会)。
それにしても、奴隷を経験した王様なんて、たぶん他にはいないでしょうね……。
オーラヴはエストニアの鍛冶職人レーアスに引き取られ(おそらくソルギースルも一緒)、親方の手伝いをしていましたが、9歳になった頃、レーアスに連れられて訪れた集税所で偶然、伯父のシグルズと出会います。シグルズは、彼がノルウェー南部のヴィークを治めていたトリュグヴィ王と自分の妹アストリーズの子であることを知り、レーアスに養育費等を支払い、オーラヴとソルギースルをホルムガルズへ連れて行きます。
この辺りから、ようやく運が向いて来ました。
奴隷の身分から解放です。
しかし、まだまだ安泰とはいきません。
980年頃、12歳のオーラヴはシグルズについて行った市場で、自分と母を離れ離れにし、養父ソーロールヴを殺したエストニアの海賊クレルコーンの姿を見かけ、手斧で殺害。復讐を果たしました。
少年とはいえ、やはりヴァイキング。
ですが、子供であろうと、人を殺してしまった彼が簡単に許されるはずがありません。伯父のシグルズは自分が仕えるホルムガルズ(ノヴゴロド)公ヴァルデマール(ウラジーミル1世聖公)に判断を委ねようとします。
公妃アルロギアの機知により保護されたオーラヴは、ヴァルデマール公の軍隊で勇猛な戦士として成長し、18歳までそこに留まりました。
ホルムガルズからヴェンドランド、イングランドへ
その後、彼は9年間ガルザリーキ(現代のロシア、ウクライナ)に滞在し、ヴァイキングの首領として名を馳せた後、ヴェンドランド(ポーランド)の王ブリスラヴの娘ゲイラと結婚。しかし幸福な結婚生活は3年ほどで、ゲイラは病没。オーラヴは再びヴァイキング遠征に出て、991年にはイングランドを恐怖の淵に陥れたモルドンの戦いで勝利、多額のデーン税(ヴァイキングの掠奪を避ける為にイングランド王が支払った退去料)を得て、「海王」と怖れられるようになりました。
※オーラヴの養父ソーロールヴの息子でこれまで行動を共にしてきたソルギースルについてはサガに記述がなく、彼はそのままホルムガルズに残ったのか、オーラヴについて行ったのかは不明です。
994年には、デンマークのスヴェン双髭王とともに再度イングランドを襲撃。イングランド滞在中にオーラヴは洗礼を受けてキリスト教徒になり、アイルランドの王女ギュザと再婚しましたが、995年、ノルウェー王位を奪還するため故国に戻ります。
ギュザとはどうなったのでしょう?
サガには何も書かれていません。
おそらく、ギュザはノルウェーに行くのを渋ったのだと思います。
※ 余談ながら彼女の父オーラヴ・シグトリュグソンはアイルランドとスカンディナヴィアの混血(Hiberno-Scandinavian)で、10世紀半ばにヨールヴィーク(ヨーク)の支配者だったことがあります。支配を争ったライヴァルは、エイリーク血斧王でした。
ノルウェー王に即位
かつてオーラヴの父トリュグヴィ王が治めていた南部のヴィークを中心に、ユングリング家(ハラルド美髪王の家系)の正統な血を享けたオーラヴを人々は王として認めます。ノルウェー南部の民は、これまでこの地方を支配していたデンマーク王より、ノルウェー人で求心力のある若い王に従うことを選んだのでした。
ちなみに、ノルウェーを最初に統一(実際には南西部の大部分のみ)したハラルド美髪王が、息子に 「王」、娘婿に 「侯(ヤール)」 の称号を与え、各地の支配権を分配したそうです。
なので、ノルウェーの王や侯は皆、どこかで血の繋がりがありました。
オーラヴ・トリュグヴァソン王(オーラヴ1世)は美髪王の曾孫に当たります。
この美髪王、絶倫だった(!)ので、子供が沢山いまして、そのせいで後の時代に争いが絶えなくなってしまったんですよね。
(下記の略系図に出ていない妻子も沢山います)
オーラヴは徐々にその勢力を拡大。その手段として彼が用いたのは、キリスト教への改宗でした。彼はそれまでノルウェーの実質的な支配者であったラーデ(ノルウェー中部)のホーコン侯(ヤール)を倒し、ついにノルウェー王として君臨します。
オーラヴはキリスト教を広めることで己の支配地域を拡大しようとし、改宗した者には土地などを分け与え、改宗に反対する者を国外へ追放しました。
異教の神殿で古い神々の像を破壊したり、断固として改宗を拒む首長の殺害をも厭わない強引なやり方ながらも効果はあったようで、オーラヴはこれまでのノルウェー王のなかで最も領土を拡大したのでした。
実は10世紀半ばにも、ホーコン善王(ハラルド美髪王の末息子でイングランド王アゼルスタンの養子)がノルウェーにキリスト教を導入しようとしましたが、その時はまだ異教を支持する勢力が強く、王は目的を断念せざるを得なかったのです。
そして 997年、彼が王都に定めたのは、ノルウェー中部スラーンドヘイムのニダロス (現在のトロンハイム) でした。
ラーデの侯(ヤール)エイリーク・ホーコナルソン
ところで、オーラヴに倒されたラーデのホーコン侯には、幾人かの息子がいました。
なかでも長男のエイリークは侯家の跡取りとして、また名誉を貴ぶ北方(ノルド)の男として、仇敵オーラヴへの血讐(フェーデ)を誓っていました。
彼は父親が殺害された時はラーデに居合わせなかったため、難を逃れましたが、スウェーデンへの逃亡を余儀なくされたのでした。
エイリークはオーラヴ王と同年代だったと思われます。父親と異なり人望優れ、見どころのある男だったので、スウェーデン王オーロフ・シェトコーヌングが彼を庇護し、バルト海へヴァイキング遠征に出るための船団を貸し与えたりしたようです。遠征での掠奪は、ヴァイキングにとって富を得るための最も手っ取り早い方法でした。
ラーデの侯家がデンマーク王やヨムスヴァイキング(ポーランド沿岸を拠点にしていた戦士集団)と戦ったヒョルンガヴァーグの戦い(986年頃)で名声を轟かせたエイリークのもとには、キリスト教への改宗を拒み、祖国を追われた反オーラヴ派のノルウェー人たちが多数集まったのでした。
その噂を聞いたオーラヴは、スウェーデンへの懐柔策を考えたのか、オーロフ王の母で未亡人のシグリーズ女王に求婚。
二人はノルウェーとスウェーデンの国境にあるコヌンガヘッラという町で会い、両国の未来について話し合ったようです。
しかし、結婚話は破談になりました。「オーラヴ・トリュグヴァソンのサガ」によると、女王がキリスト教への改宗を撥ねつけたことから口論になり、オーラヴが手袋でシグリーズの頬を打ったとされています。
オーラヴに異教徒の牝犬呼ばわりされたシグリーズは、「この仕打ち、必ずやお前の命取りになるぞ」と言ったそうです。
シグリーズ女王はその後、デンマークのスヴェン双髭王と再婚。
そしてエイリーク・ホーコナルソンはスヴェン王の長女ギュザと結婚し、ここにデンマーク・スウェーデン・ノルウェー(反オーラヴ)の三国同盟が出来上がったのでした。
オーラヴ王、三度目の結婚
三国同盟に対抗するため、オーラヴは姉のインギビョルグを西イェートランドのログンヴァルド侯に嫁がせました。イェートランドはスウェーデンとノルウェーの国境に位置し、侯家はスウェーデン王家と敵対関係にあったからです。
その少し前のことでした。
デンマーク王女テュリが兄王(スヴェン双髭王)に強いられたヴェンランド王ブリスラヴとの政略結婚を厭い、ノルウェーにやって来て、オーラヴに保護を求めたのです。
兄と敵対するノルウェー王のもとへ来たのですから、テュリには余程の覚悟があったと思われます。
オーラヴとテュリは波長が合ったようで、二人の仲は急速に発展。オーラヴの求婚をテュリは即座に受け入れたようです。
デンマークのスヴェン王には、青天の霹靂だったことでしょう。
スヴォルドの海戦
1000年6月、オーラヴ王は自慢の軍船〈長蛇号〉Ormurin langi(The Long Serpent)に乗り込み、船団を率いてヴェンドランドに向かいました。
同盟に関する話し合いのためと思われますが、妃テュリの持参金返還の要求もあったようです。
ヴェンドランド王ブリスラヴはオーラヴの最初の妃ゲイラの父で、当時は軍事的にもオーラヴに多くの支援を受けていたので、持参金の返還に快く応じました。
ヴェンドランドは立場的には中立です。
というのは、ブリスラヴ王には三人の娘がいて、ゲイラ(故人)はオーラヴ、グンヒルド(故人)はスヴェン、アストリーズはヨムスヴァイキングの首領シグヴァルディ侯の妻であったので、オーラヴ王、スヴェン王、シグヴァルディ侯はかつて義兄弟の間柄だったからです。
オーラヴが大船団を率いてヴェンドランドを訪れたことは、エイリーク侯らの耳にも入っていました。
デンマークのスヴェン王はシグヴァルディを呼び、自分たちがオーラヴと確実に出会えるよう手引きをさせたのです。
シグヴァルディ侯の妻アストリーズは、亡き姉妹がオーラヴと結婚していたことから、オーラヴとは親しい友人同士でした。
昔の誼もあってオーラヴ王の一行がヴェンドランドに長居している間に、エイリーク侯やスヴェン王も軍勢の準備を整え、オーラヴがノルウェーに帰国する際に船団を襲う計画を立てました。
そして、双方はバルト海の南、狭いエーレスンド海峡に浮かぶスヴォルド島近くで相対することになったのです。
後世に「スヴォルドの海戦」として伝わる大規模な海戦が繰り広げられました。
オーラヴ王の旗艦〈長蛇号〉は、船首と船尾の装飾部分が黄金で覆われた、当時のノルウェーで最も大きく豪奢な軍船でした。
王は〈長蛇号〉を中心に、王の以前の旗艦〈鶴号〉や、キリスト教への改宗に応じなかったハロガランド(ノルウェー北部)の首領から接収した〈小蛇号〉など11隻を船索で繋がせて、海上の要塞を作り上げました。
前方に現れた〈長蛇号〉を見て、先手を打とうとしたデンマーク軍とスウェーデン軍でしたが、彼らは苦戦を余儀なくされました。
〈長蛇号〉の左右には〈鶴号〉と〈小蛇号〉がいるため、船上から矢を放っても〈長蛇号〉に届きません。逆に、巨大な〈長蛇号〉は他の船よりも長く、高さがあるので、矢や投槍を敵船に向けて上から打ち下ろすことができました。
無数の矢の雨を受け、大打撃を被ったデンマーク軍とスウェーデン軍は、矢の届かないところへ退避するしかありませんでした。
旗艦〈鉄鬚号〉の船上でその様子を見ていたエイリーク侯は、自ら率いる船団を左右に分け、海上の要塞を外側から攻める作戦を考えました。
最も外側にいる船から順に攻撃を仕掛け、船首を繋いでいる索を切断し、最後に残る〈長蛇号〉を孤立させるのです。
戦上手で知られるエイリーク侯の作戦は成功し、ついに〈長蛇号〉は孤立。エイリークは〈鉄鬚号〉を横づけし、自分の兵たちを次々に〈長蛇号〉に飛び移らせました。
エイリーク侯のスカルド詩人ハルドールは次のように謡っています。
晴れやかな侯(エイリーク)は
勇士らの戦意をかきたて
オーラヴの部下を船尾へ走らせる
黄金を撒き散らす高貴なる王がもと
舵の馬(長蛇号)のまわりにて
烈しき戦いが巻き起これり
〈長蛇号〉にて激しい戦いが繰り広げられ、エイリークはついに仇敵オーラヴ王を追い詰めますが、もはやこれまでと悟ったのか、エイリークの眼前でオーラヴは楯を頭上にして船縁から海に身を投げたのでした。
スヴォルドの戦いは、エイリーク侯とデンマーク・スウェーデンの同盟軍が勝利しました。
海中へ身を投げたオーラヴ王の遺体は上がらずじまいでした。
オーラヴ王を慕う者たちは、水泳が得意だった王が水中で甲冑を脱ぎ捨て、軍船の下を潜ってシグヴァルディ侯の妻アストリーズの船に泳ぎ着き、難を逃れたのではないかと考えたようです。
ほかにも王の行方を語る逸話が数多く残されているものの、オーラヴ王はスヴォルドの海戦の後、二度とノルウェーに戻りませんでした。
現代のトロンハイム
キリスト教への改宗を強引に推し進めた王ながら、オーラヴ・トリュグヴァソン王の短くもドラマティックな生涯はノルウェーの人々に人気があるようで、彼が王都に定めたトロンハイムの中心部にある広場にオーラヴ王の像が立っています。
また、市内には「オーラヴ・トリュグヴァソン通り」(Olav Tryggvasons gate)が存在します。
ノルウェーのキリスト教化は、オーラヴ王の遠縁にあたるオーラヴ・ハラルズソン(後のオーラヴ2世、聖王)が引き継ぐことになります。
最後に宣伝で恐縮ですが、オーラヴ・トリュグヴァソン王については、「オーラヴ・トリュグヴァソンのサガ」を題材に、王を仇敵とするエイリーク・ホーコナルソンを主人公とし、独自の創作を加えた物語を書きました。
紙の書籍(個人誌)と電子書籍(Kindle)がありますので、よろしければ是非読んでみてください。
紙の書籍(文庫、140ページ)
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主要参考文献
Snorri Sturluson, HEIMSKRINGLA History of the Kings of Norway, Lee M.Hollander (tr.), University of Texas Press, Austin 1991.
スノッリ・ストゥルルソン / 谷口幸男訳 『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(二)』プレスポート・北欧文化通信社、2008年。
山室 静『バイキング王物語』筑摩書房、1981年。
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