見出し画像

ヴァリャーギ(ビザンツの北欧人親衛隊)とルーン石碑

北欧人は、ヴァイキング時代以前からすでに東方へ進出していましたが、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に滞在したスヴェア人(スウェーデン人)の存在が初めて知れるのは、839年のこと。
ビザンツ皇帝がフランク王国に派遣した使節団の護衛を務めていたようです。

その後、有名なところでは、ノルウェーのハラルド苛烈王 (1015頃~1066) が異父兄オーラヴ(聖王)が戦死した1030年のスティクレスタズの戦いの後、スウェーデン、ロシアを経由してビザンツ帝国に向かい、500人の兵士を率いて皇帝ミハイル4世に仕えました。

彼ら北欧人の戦士団のことを、ロシア語でヴァリャーギ(単数はヴャリャーグ)と呼ぶようになり、北欧のヴァイキングにとってビザンツ帝国の都コンスタンティノープルは憧れの地となりました。
彼らは帝都のことをミクラガルズ(ノルド語で大きい町の意味)と呼び、冒険と名誉を求め、東方へと旅立ったのでした。

ヴァリャーギの全盛期は11世紀中~後期。
その頃、彼らの故郷で建てられたルーン石碑の多くが、ギリシャ遠征に関するものです。
北欧人はビザンツ帝国のことを主にギリシャ(古ノルド語で Grikklandi ) と記しています。


ラングバルダランドは南イタリア。
ヴァリャーギはシチリアあたりにまで遠征していたようです。

石碑の多くは戦地で没した息子や兄弟、友人を偲ぶものですが、無事に帰還した人物が自身のことを記録したものもあります。

上記のラグンヴァルドがビザンツ帝国に滞在していたのは、1070年前後ということがわかっています。

無事に故郷に帰還した彼は、きっと英雄扱いを受けたことでしょう。
本人もたいへん誇らしかったと思います。

ルーン文字は神秘的なイメージで語られることが多いですが、このように記録するための文字として用いられていたことのほうが一般的でした。
11世紀のルーン石碑には、16文字からなるヤンガーフサルク(デンマーク型)が主に使われています。

ビザンツ型と呼ばれる十字架と、北欧神話の大蛇ヨルムンガンドが一緒に彫られているのが、当時のルーン石碑の特徴でもあります。

とりわけスウェーデンは北欧諸国の中でもキリスト教への移行が最も遅かったそうで、ビザンツ帝国でキリスト教に改宗した人も多くいたようです。
それでも、彼らの世界観には、ヨルムンガンドがまだ存在していたのでしょうね。宗教の移行期ならではの彫刻に、とても興味を惹かれました。


今回の記事で参考にしたのは、この書籍。

マッツ・G・ラーション著、荒川明久訳『ヴァリャーギ ビザンツの北欧人親衛隊』
国際語学社、2008年

この本は、ヴァイキングとビザンツ帝国に興味のある人にはめちゃくちゃオススメなのですが、絶版している上に出版社がもうなくなってしまっているので、図書館で探してみてください。
とても面白いです!


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?