ジュラシックワールド新たなる支配者が【誰もが認める】名作になるために必要だったこと
『新たなる支配者』は賛否両論が激しいようですが、私は高評価です。しかし、不満がゼロというわけではなく、一点だけ引っかかる部分はありました。それは本作のキャッチコピーと矛盾している点です。
本作のキャッチコピーは【シリーズの壮大なる終幕】です。
以下、映画本編の結末を #ネタバレ 全開で記述しますのでご注意ください。
▼たった一つの気になった点:
私からは、一言だけ。
ぜんぜん【終幕】してねえじゃんか!この嘘つき!(笑)
…そう、何も終わってないんです。
誤解がないように最初に断っておくと、私はこの映画をメチャ楽しみました。予告編通りのインパクトがある野生の恐竜のビジュアル、過去作を彷彿させる様々なシチュエーション、大迫力の白昼市街地のバイクアクション、盛り込みすぎやろってくらい詰め込まれた恐竜のバリエーション、ほぼセルフパロディに近い有名セリふの引用、最近の映画では珍しいほど高いCGのクオリティ、マスコットであるTレックスの勝利の咆哮。
しかし、一つだけ気になるのです。
この映画、スタートから何も変わってないんです。
本作は色々あったけど、最後は振り出しに戻っただけです。
まあ、たしかに悪の企業バイオシンは倒産したし、イナゴによる食料危機は新薬研究のおかげで解消しつつありますし、サトラー博士とグラント博士は熟年再婚おめでとう、クローン少女は反抗期を乗り越えて両親と良い関係になって笑顔で焚き火マシュマロを楽しみます。めでたし、めでたし。
しかし、主要キャストから少し離れて、世界レベルでどうなったのか俯瞰して見ると、残念ながら『炎の王国』のラストから何も変わっていません。
主要キャラクターは全員生き残り、大型恐竜を中心に特定地域に保護されて、一部の小型恐竜は今でも都市に溢れている、という状況は変わりません。海で暴君モササウルスは今でも泳いでますし、ニューヨークの高層ビルに巣を作ったプテラノドンも放置のままでしょう。
これのどこか【シリーズ終幕】なんですか?
いくらでも続編制作が可能じゃないですか?(笑)
イタリア北東部のドロミーティ(またはドロミテ)地方にある保護地域は誰が管理主体になったのでしょうか。新たな民間企業でしょうか?イタリア政府でしょうか?WWF(世界自然保護基金)でしょうか?それともクレアが設立したDPG(恐竜保護団体; the Dinosaur Protection Group)のようなNGOでしょうか?その資金繰りはどうするのでしょうか?次にまた誰かが金儲けのために謀略したり、密猟してブラックマーケットで売り捌いたり、科学を過信してトラブルを起こしたり、などなど【新しい過ち】が発生する可能性がゼロとは言えません。
この作品『新たなる支配者』に不満足な人達って、深層心理的には本作の煮え切らない結末のせいで、細かい点が許せない気持ちになってるか、または【自分の理想のジュラシックパーク映画】が諦めきれない、状態になっているのだと思います。「こんなの私が観たいジュラシックシリーズじゃないのにこれで終わりだなんて…まだ作ろうと思ったら作れそうだしやり直してよ」という気持ちが湧いているんじゃないですか?
安心してください。
人間とは同じことを何度でも繰り返す存在です。(成功も失敗も)
ユニバーサルがお金を稼ぎたくなったらいつでもジュラシックシリーズを再開できますよ。何と言っても、恐竜が生き残ってるんですから。若手クリエイターが少し先の未来にやりたくなったらきっと企画書を書きますし、たぶん通りますよ。そんで「あの伝説のシリーズが奇跡の復活」とか宣伝してさ。(笑)
だって4作目がそうだったじゃないですか。2001年公開の3作目の結末を受けて、制作サイドの誰もが「もういいや、満足した」もしくは「もう止めよう、スピルバーグの大傑作の続編なんてこりごりだ」って思ってたけど、実際には干支が一周した頃にコリン・トレヴォロウという新進気鋭の監督が情熱を持ってリブートしたのが2015年の4作目だったわけで。
第4作は14年間の技術進化と原作へのリスペクト&ノスタルジアのお陰でまあまあ大成功して、続編制作までGOサインが出ました。
今回はトリロジーの監督/脚本を務めてきたトレヴォロウが完全燃焼しただけですから、きっとまた10年くらい過ぎたら次世代のトレヴォロウが出現してエピソード7が作られますよ。フォースの覚醒ならぬダイナソーの覚醒ですね。今から予言しておきます。その時までこのnoteが残ってれば良いですけど。(笑)
▼なぜ第1作は不朽の名作なのか?
今でも第1作の『ジュラシックパーク』だけは、ほぼ絶賛されています。いつまでも朽ちない、文字通り「不朽の名作」となったと言えるでしょう。なぜ第1作だけがこのように成功できたのでしょうか。
ずばり、ラストで恐竜が絶滅しているからです。
ハモンドは夢を捨てて、恐竜をすべて殺したから、名作になったのです。
え?そんなことないって?
いいえ、恐竜は全員数日で死ぬ運命だったんですよ。
第1作では「人間が必須アミノ酸を投与しないと恐竜はそのうち死ぬ;なぜなら恐竜は遺伝子操作でそのアミノ酸を体内で合成できないようにしたから」と、パーク職員アーノルドが明言しています。
つまり映画の中でマルコムやグラントが話してる【メスしかいなくてもカエルのDNAを使えば繁殖できる】とかそういう議論をする前に、そもそも恐竜たちは(人間がエサをあげないと)数日で死ぬ設定だったのです。
だからこそハモンドはヘリポートで島を離れる時に躊躇して、ヘリの機内でステッキの琥珀を寂しそうに見つめていたのです。自分の子供のように思っていた恐竜を全て見殺しにして、世界中の子供のために建設したパークを諦めるなんて。
彼の未来に待っているのは今回の人身事故とパーク事業中止が起こすであろう途方もない数の民事/刑事裁判への対応と、手元に僅かに残った資本での寂しい老後の暮らし。夢破れた男の悲しき姿だったのです。
しかし、この設定は第2作であっさり無かったことにされます。(笑)
てっきり生活も苦しいくらいに落ちぶれたのかと思いきや、ハモンドは今でも立派なお屋敷に住んでいます。
そして死んだはずの恐竜たちも…
おそらく繁殖と同じく、マルコム博士のライフ・ファインズ・ア・ウェイ理論(「生命は道を見つける」という有名すぎるセリフでありシリーズ全作品の根拠として使われる;スターウォーズの「悪い予感がする」に匹敵する決まり文句)に基づいて、アミノ酸合成もなんとかやりくりしてしまったのでしょう。しかも島に生息する全ての恐竜がこの能力を発動して!…というか、ここまでくると、そもそも本当にアミノ酸を投与しないと死ぬのか、ちゃんと事前にテストしていたのかどうかさえ怪しいレベルです。なんてずさんな品質管理。(笑)
このことが作品のフィクションレベルをググッと数段階ほど押し上げており、これに対して良い反応をする人も、悪い反応をする人も居る、といった所でしょう。なお私は【アトラクション映画として成立させるためのルール】だから受け入れるべきだと捉えています。この設定変更は、ぶっちゃけ私の中では別ジャンルになったくらいの大きな仕様変更です。でも第1作のリアリティレベルをキープしていたら続編なんか作れません。
他の人気フランチャイズで例えると昭和ゴジラシリーズのような感覚ですかね。すごくシリアスに作られた昭和29年の第1作と、それに続いて14作品も制作された怪獣プロレス映画の関係性が似ていると思います。そしてゴジラファンの中にも「初ゴジしか認めん」みたいな厳格なファンが一定数いらっしゃいます。
▼どうすれば第1作に並ぶ名作になれたのか?
ここで第6作『新たなる支配者』の可能性について論じましょう。この映画にも第1作のように「不朽の名作」になれる道があったのでしょうか。
ジュラシックパーク第1作は、ハモンドが夢を実現し、挫折して全てを失うラストだから、物悲しくて、エスプリが効いてて、強いメッセージ性を持つのです。日本人なら諸行無常と【もののあはれ】を感じることでしょう。
第2作の冒頭で、そんなムードは完全に吹き飛ばしてきますが。(笑)
もしガチでシリーズ完結をさせるなら、第6作『新たなる支配者』でも恐竜を全滅させるべきだったかもしれません。皆勤賞のTレックスも、ブルーもベータも容赦なしです。じゃないと終幕だなんて呼べませんから。少なくとも第1作と同じくらいに強烈な「もう終わった」という喪失感を出すことは出来ます。何か大きなものを得るためには、それなりに大きな犠牲を伴う覚悟は必要です。大いなる力には大いなる責任が伴う、ってヤツです。
しかし、恐竜を全滅させてしまうと、それはそれで第5作の結論「どんな形で創られた命にも生きる権利がある」とも真っ向から対立するので難しいものがあります。全てを皆殺しにするのは、子供も見る映画としては、あまりに夢がない終わり方であることも問題です。第5作の少女は「恐竜を殺さないで!」と願う観客席の子供たちの投影でもありました。
またシンプルにエンタメ映画として見ても、火山が噴火して生息地ごと燃やし尽くす描写は第5作でやってしまったからビジュアルの新鮮さにも欠けます。
しかしながら、銀の弾丸は見つかりませんでした。
第1作は必須アミノ酸という小難しい話にすることで子供には分からないように工夫していましたが、それはスピルバーグのような天才だからこそ出来た(*もしくはマイケル・クライトンのシリアスな原作小説に従ったため)とも言えるでしょう。第6作にはそういう仕掛けを用意することができませんでした。
もとより昨今の大型フランチャイズ映画ではアトラクション化を強めるのが昨今のトレンドです。ジュラシックとて当然この流れに逆らうことはできず、シリアスな要素を脚本に織り込む余地がなかったという事情もあるでしょう。あるいはグッズ販売を視野に入れたビジネス面での制約という大人の事情だったのかもしれません。(死んだらグッズ売上に響く)
ただ一方で、映画とは夢を見せるコンテンツでもあります。そもそもリアルで2022年の世界が疫病と戦争でディストピアの様相を呈していますから、せめて映画の中でくらい夢を見たいものです。病原体のDNAを改変して環境を改善するという試みは、まさに今mRNAを使って人類に投与しているワクチンと同じですし、だからこそ映画の結末で成功の兆しを見せているのでしょう。名作としての箔は逃したかもしれませんが、代わりに人類に希望を残しました。これらが、私がこの第6作を不朽の名作じゃなくても支持する理由でもあります。
上映直後の映画館の売店で、年齢も性別もさまざまな子供たちが楽しそうにグッズを選んでいました。リア充してそうな大学生くらいの女子でも「ブルー可愛いー」「ベータもいいよねー」とわちゃわちゃしながら選んでいるのが、ちょっと意外なくらいでした。恐竜の魅力ってスゴイ。子供達が楽しそう。これがユニバーサルが守りたかったものなら、本作のプロダクション上の決断に私は全く異論ありません。これこそまさにジュラシックパーク第1作が到達した【古典的な名作映画】という概念に代わって、第6作が選んだ【新たなる支配者】としての道なのでしょう。
了。
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