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ペナン島で出逢った人々⑵ ダン君との対話

ペナン島②

目を覚まし、シャワーを浴びて、階下の共用室に向かった。
キッチンにはパンなどの類はなく、ただマレーシア風のミルクコーヒー(コピ)の顆粒があるだけ。
私はひとまず共用のマグカップに粉を入れてお湯で溶かした。
椅子に座って、甘ったるいコピを一口飲むと、「ああ、マレーシアにいる」と改めて実感する。

ダンを待ちながら

朝から行動せず、共用室のテーブルに座っているのには理由がある。
昨夜、同室だった中国人ダン君と朝食を食べに行く約束をしたからだ。

共用室には二人先客がいた。
一人はケニヤのナイロビから来たレゲエ風の見た目のジャック。
もう一人は中国の武漢から来たヨン。
ダンが起きてくるまで彼らの話を聞いた。

ジャックはナイロビからタイを経てマレーシアに来たらしい。
「ナイロビからは遠いでしょ?」と聞くと、かなり遠いと言う。次は日本にも行きたいと彼は言う。
ナイロビについて聞いたら、今はビルが林立していて、旅人も困らないと言う。アフリカの人から話を聞くのは初めてだったから、なんだか新鮮だった。

ヨンは昨夜話した中国人の若者の例に漏れず、ラオス、タイと回って南下してきたという。途中で出会った雲南出身の友人がこの「松葉荘」に泊まっており、彼が起きてくるのを待っていると言った。私と境遇は同じだ。
それから彼は2020年の武漢について話した。当時は政府がロックダウンを決定し、全く外に出ることができない日々が続いた。罹患者が死んだ場合は火葬されることもなかった。生きている人も管理され、数日に一度は検査を受けなければならなかった。
「俺たちはかなりの我慢を強いられたんだ。ある時、ロックダウンが解かれた。それからは、皮肉なことに、大勢の人がコロナに罹患して、俺もそうだけど、こうやって生き延びている。あの日々はなんだったんだ。中国でも政府に不満を持つ人はたくさんいる」

しばらくして、上階から昨日言葉を交わした中国の少女ランが降りてきた。
ダン君も入れて朝食でもどうか、と聞いてみると、「いいね」と言った。

だが、待てど暮らせどダンは起きてこない。ランは行きたい店があるようで、ダン抜きで行かないかと提案してきた。
それもありかなと思いつつ、起きてきて誰もいないと彼が可哀想な気がしてきた。
「約束があるから…」と私は男の約束を守り切ることにした。

ランはそのままバスに乗ってクアラルンプールに行く、と言っていたので、お互い知り合えたことに感謝しながら、別れを告げた。
「良い旅を!」
「あなたもね!」

結局、ダン君が起床したのは12時近かった。
「かなり待たせたよね…ごめん」と平謝りするダン君。こう言う時、やっぱり中国人は同じ東アジアの文化圏だなと感じる。
私は笑いながら、
「よく眠れたならよかった。昨日は散々だったからね。昼ごはんでも食べよう」と答えた。
実際、ダンを待ちながら、ヨンやジャックと知り合えたのだ。悪くない時間だった。少しばかりお腹は空いているが。

アルメニアンストリート

アサム・ラクサについて

昼食の場所はダン君がすぐさまGoogleマップで検索して当たりをつけてくれた。
基本的に食事場所は足で稼ぐタイプなので、完全に口コミだけで店を決めていく彼に若々しさを感じた。
年齢はさほど変わらないはずだけど。

昼間の観光客で賑やかな、日差し照りつけるアルメニアンストリートを北上し、横道に入ったところに華人系の古いカフェがある。
カフェとは言っても店の中は土倉のようで、無骨である。
この店の名物は「アサム・ラクサ」らしい。値段は、8リンギッ(300円ほど)。悪くない値段だ。

ラクサというのはニョニャ・ババ(プラナカン)料理として知られるマレーシア・シンガポールの名物だ。
ニョニャ・ババ(プラナカン)というのは比較的早くから交易商人としてマレー世界に移り住んだ華人のことで、中国風でもマレー風でもインド風でもない、独特の文化を持っている。

ニョニャ・ババ料理は交易を通じて手に入れたスパイスを使うことが有名で、そのほかにも、ココナッツミルクやヤシ砂糖なども多用する。
ラクサも例に漏れず、基本的には中華麺の料理ながら、スープはココナッツミルクに辛いスパイスが使われることが多い。

ラクサが有名なのはニョニャ・ババ(プラナカン)が住んでいた英国の元海峡植民地シンガポール、マラッカ、ペナン島である。
各地でそれぞれ名前が異なり、シンガポールではそのまま「シンガポール・ラクサ」、マラッカでは「ニョニャ・ラクサ」、そしてペナン島では「アサム・ラクサ」と言われる。
私の印象だと、シンガポールはマイルド、マラッカは唐辛子マシマシの辛味成分強めだったので、果たして「アサム・ラクサ」はどんなものかと期待していた。

店のおじさんが持ってきたアサム・ラクサは、深皿(どんぶりほどではない)に入っており、汁が少なめの、油そば風だった。
シンガポールにしても、マラッカにしても、ココナッツの汁麺だったので、衝撃的である。

一口食べるとさらに衝撃がある。
ライムの酸味、ハーブの香り、そしておじさん曰く「生姜の花」を散らしているからこそ生まれるさわやかなミョウガのような風味が駆け抜ける。
日差しが照りつけるペナン島ではこれくらい口当たりが爽やかな方がうまいのかも知れない。
そしてこの酸味とハーブ感は、タイ料理とも似ていて、徐々に自分がタイに近づいてきたのだなと実感するものでもあった。

ダン君は、店の人には「美味しかったです」と言っていたが、口に合わなかったようで、その後はずっと「あそこのはまずい」と言い続けていた。
後で入った鶏飯の店で、うまいうまいと大量に食らっていたのを思うと、ダン君は結構食に保守的なのかもしれない。
アサム・ラクサの味わいは、確かに、中華料理にはない味だったから。

アサム・ラクサ

偶然性・フィロゾフィー・連帯

街を歩きながら、中国風の寺院を眺めていたら、ダン君が私に
「興味あるの?」と聞いてきた。
私は、「すごく興味があるよ。旅先でよく信仰に関わるものを目にするけど、できるだけそれぞれのことを知りたいと思っている」と答えた。
「そうか。中国の寺院は僕にとっては珍しくないんだけど……僕も歴史や文化に関心があるからわかる気がするよ」とダン君が答えた。「でも、そういうのに興味を持つのは珍しいね」
私は、「実は大学では哲学をやっていたんだ。宗教的実践も近い分野だからね」と答えた。すると、ダン君は目を丸くした。
「おい、まじかよ、僕も哲学専攻なんだ!」

そもそも現代において哲学を専攻する人は珍しい。
フランスなどと比べると東アジアや南アジアではそれがさらに稀になる。
それもエコノミックアニマルの国日本と、社会主義の面を被った国家主導の資本主義の国中国だ。
就職や仕事になんの役にも立たない哲学をやっている人同士が、旅先で出くわすなんて確率はかなり低いし、現に初めてである。
私たちはなんだか嬉しくなり、握手を交わした。

私は尋ねた。「中国の大学だと、哲学はどういうものを学ぶの?」
なぜかというと、かつて台湾の書店で哲学書のコーナーを覗いたところ、結構な頻度で孔子や老子など中国の伝統的な思想の本が並んでいたからだ。
さらにいうと、社会主義国ベトナムで同じことをした時には、西洋哲学や東洋哲学だけでなく、社会主義の原理である「史的唯物論」や社会主義の理論の本も多かった。
だから中華圏かつ共産圏の中国大陸はどんな感じなのだろうと疑問に思ったのだ。
「つまり…中国の思想? 社会主義の理論? それとも西洋哲学?」と私は付け加えた。

「そういうのもあるけど、僕が専攻していたのはフランス哲学なんだ」とダン君。
私は驚いた。私もフランス哲学専攻だ。それを伝えると、ダン君も驚く。
たまらず私は、「哲学者でいうと誰を研究してたの?」と聞いた。
「主にベルクソンの哲学を……」とダン君はいう。私は絶句した。よりにもよって、ベルクソンは私が修士論文でメインテーマにしていた思想家だからだ。

一言で言って、そんなことがあるのか、という感覚である。
たまたま、東南アジアの、マレーシアの、ペナン島という島の、無数にある宿のうちの「松葉荘」の同室で、言葉を交わし、ご飯を食べに行った人が、あろうことか、無数にある学問領域のうちで、哲学の、フランス思想の、ベルクソンを専攻している。ちなみにベルクソンは、日本では比較的マイナーな扱いである。
「ははは、偶然だね」どころではない。

ダン君曰く、私を初めて見かけた時、大学の時の仲間のような雰囲気を感じたそうだ。哲学を学ぶという変態的な選択をした人には、身に纏ってしまう空気感があるのかもしれない。
にしても、驚きである。
こんな出会いも滅多にないので、私たちは1日共に行動することにした。

中国のお寺の二つの源泉

中国寺院の一つに入り、ダン君がいろいろと教えてくれた。

「中国の古くからの信仰は、二種類あるんだ。一つは、タオ(道)の信仰(タオイズム、道教)で、もう一つはもう少し時代が下ってから成立したインとヤン(陰陽説)だ。このお寺は書いてある紋様と額に書かれた文字から、陰陽説のお寺だとわかる」
私は、「それらはどう違うの?」と聞いた。
「そうだね、基本的な信仰は似通っているけど、世界観が違う。タオイズムは、世界が「タオ」という一つの原理の上に成り立っていると考える。
だけど、陰陽説は、世界はイン(陰)とヤン(陽)という二つの原理があって成立していると考える。天地、男女、昼夜……そう言った対立しながら、世界を成り立たせているものがあると見るんだ。韓国の国旗の真ん中に「太極図」があるのを見たことがあるだろ? あれは陰陽説のものだよ」とダン君は言う。

「でも、どのお寺も、媽祖とか関羽とかいろいろな神様を祀っているよね」と私が尋ねると、
「そうだね。祭る神についてはそんなに違いはないかも」と答えた。
後で調べてみたのだが、この「タオイズム」と「陰陽説」は対立する二つの派閥というより、道教の構成要素として捉えられているようで、宗教施設としての道教寺院や廟の間の差異というのもよくわからなかった。
ひょっとすると、中国人の間では大事なのかもしれないが、わからない。

太極図があるので陰陽説のお寺

三礼の彼方へ

「お寺で祈るときは、線香をささげ持って、三礼するんだ。そして、願い事や先祖への感謝を述べる」とダン君は言った。それ自体は、台湾や香港、シンガポールで見よう見まねで学んでいた。だが、気になることがあった。
「どうして三礼するの?」

「それはいい質問だ。本当にいい質問だ」とダン君は満足そうに頷く。「これは中国の思想、タオイズムの考え方によるんだ。宇宙が始まるとき、『一は二を産み、二は三を産み、三が全てを産んだ(One makes Two, Two makes Three, and Three makes everything)』と言われている。だから、お祈りをするとき、願いが叶うように、初めの一礼が次の礼を、次の礼が最後の礼を、そして最後の礼が願いの成就をさせることを心にとめるんだよ」
「つまり……」私はいう。「世界の創世をお祈りの中で再現して、願いを実現させるってこと?」
「そう、だいたいそういうことだよ」

私は次に、「三というのは中国の人にとって重要なのかな。ほら、諸葛孔明が劉備に3度請われて初めて軍師になった『三顧の礼』とかさ」と聞いてみた。
「ああ、日本で三国志が有名なのは知ってるよ。三国志も、確かに、三だね。でも、僕は無関係だと思うな」とダンは答えた。

祭壇の前で、跪いて、二枚の石を投げている人がいた。ダン君は、
「あれは占いだ。何度も投げて、願い事が成就するか尋ねているんだ。でも、何度でも投げてる人もいる。やってみる?」と尋ねた。
今思えばやってもよかったが、なんとなく辞めてしまった。

(一人旅=)省察

それから、2人で中東式のコーヒーの店に入ったり、水上生活者の区域に入ったり、レコード屋を巡ったりした。

水上生活者の区域。ほとんど観光化されている。
シリア人がいとなむコーヒーとトルコ菓子の店

私はあまり興味がなかったが、ダン君はビーチに行きたいらしい。
ビーチはペナン島の北部、バトゥフェリンギというところにあるという。
フェリンギという音がイタリア語のようだったのでイタリア人が開発したのかと思い込んでいたが、フェリンギとはペルシャ語で「異人」を指すらしい。

ダン君は配車アプリを使おうとしていたが、私はそれを制止した。
配車アプリは昨日嫌な出費に繋がった。昼間なんだからバスがあるはずだ、と。
ケチを不徳と考える中華系の人の前では申し訳なかったが、背に腹はかえられない。
それに、中国文化をたくさん教わったので、これからマレーシアを旅する青年に、マレーシアのバスの乗り方を教えてやろうと傲慢にも思ったわけである。

まずは、バス停で待ってもいいが、バスがどこを通るか把握する。
そして流れを読んだ上で、やってくるバスの番号を確認。
乗りたいバスが来たら思い切り手を振る。
バスが停まったら、目的地を運転手に言う。これは念押しでもあるし、マレーシアの場合は先払いしてチケットをもらうことが多いのだ。

実践してみると出費は2リンギッ(70円くらい)ほど。
あまりの安さにダン君は興奮気味に、「すごい!」と言った。「配車アプリだったら二倍以上するよ!」
ふふふ、現代のテクノロジーが失ったものもあるのだよ、と私は胸を張った。

「一人旅は好き?」とダン君が尋ねる。
「好きだよ。自分と向き合う時間が取れるし、自分の声に忠実になれる。君は? 一人旅は好き?」と私は尋ねた。
「僕も好きだ。今回初めて一人旅をしたんだ。色々とやらないといけないことが多いよね。バスや列車や宿の手配、どこにいくかもすべて僕はプランニングしたいし。だけど、一人で歩くと考えることも多いし、静かに集中できる」と彼は答えた。

「まるで瞑想とか、哲学みたいに、ね」と私は言った。
「そうそう。一人旅は瞑想だ。哲学している時と同じ感覚だね」ダンは笑った。
「トラブルに対処したり、こうやって偶然の出会いを楽しんだりするのは、人生の縮図みたいだよね」と私が言葉をつなぐと、
「哲学は死ぬ練習かもしれない、旅は生きる練習だ」とダンは言った。

饗宴

バスが目的地にたどり着いたのは夕方で、夕焼けも始まりつつあった。
私たちはバスから降りてビーチへと向かった。
ダンは泳ぎたかったようだが、誰も泳いでいないし、ダン曰く、「水が汚い」らしい。

結局、彼は夕日の風景を撮影したり、中国の友人とビデオ通話をすることに集中している。
こういう姿を見ると、同じ東アジアとはいえ、異国の人だなあと実感する。
いや、単に年齢の違いもあるかもしれないのだが。

ビーチは島の北辺にあり、夕陽が西に沈むのがよく見える。
ビーチは、ダン君のように写真撮影をする若者で溢れている。
当然私も時折レンズを向ける。

夕陽が一度落ちると、明るいとも暗いともいえぬ、幻想的な光の海にあたりが充満される。
人々の影は伸び、浮ついた雰囲気に、緊張と酩酊した空気が漂い出す。
夜が始まるのだ。私はこの妖しく、少しだけ不安を湛えた時間が嫌いではない。

夕陽の最期を見届けて、私たちは帰りのバスを捕まえた。
往復1時間かけて夕陽を見ただけだったが、十分満足できる時間だった。

街に戻ると、人だかりができている。
人混みをかき分けてみると、道を着飾った華人たちが行進し、神輿や山車もいる。なんらかの祭りだろうか。
ダン君に聞いてみると、福建の人たちの行列のようだが、祝日ではないらしい。ペナン島は福建系が多いのかもしれない、と彼は言う。

「あの神輿を見てごらん。すごい速さで、掛け声も素早く進んでくだろ? ああすることで神が喜ぶと言われてるんだ」
行列の中で、エッサホイサと日本では考えられないほど爆速で走る神輿を指して、ダンくんが教えてくれた。
「ビーチには昼のうちに行こうと思ってた。でも夕方だったおかげで夕陽も見られたし、こうしてお祭りも見ることができた。すごくいい1日だったよ」ダン君は言った。
確かに偶然の出会いの得難さを感じる1日だった。

高速で走る神輿。手前の傘のようなものは地区の旗頭らしい。

ダン君はペナン島に満足したようで、今夜の便でクアラルンプールへ一路向かうと言う。
その前に、2人で少しだけ高いニョニャ・ババ料理の店に入った。
鶏のプラナカンカレーと野菜の炒め物を食べながら、私は旅の情報交換をした。私は南の情報を、彼は北の情報を持っていたからだ。
宿のこと、街のこと、文化のことを話しながら、時代は変われど旅人の伝統は変わらないなと思った。

ペナンのニョニャババ料理はスパイシーで濃厚だった。

***

松葉荘に戻ってから、私たちは別れの挨拶を交わした。
「もし中国に来たら教えて。案内できる」
「こちらこそ、日本に来たら教えてくれ」

「それでは、良い旅を!」
「そちらこそ、良い旅を!」

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河内集平(Jam=Salami)
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