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ミモザの候 12: スノームーン

私は空を見上げるのが好きだ。夜空、とりわけ月の満ち欠けを眺めるのが好きだった。月替わりには旧暦カレンダーで新月と満月の日時を確認し、月齢を確かめるように毎夜空を眺めていた。

でも、あれから、月を眺めることが私には少し息苦しくなっている。

年があけてしばらくして自宅に戻った私は扁桃炎を患った。もともと扁桃炎は持病のようなもので、油断するとすぐかかってしまう。心労や睡眠不足、そのうえ、自分の身体であって自分の身体でないような、なにかに突き動かされるように重いカラダをあちらへこちらへと運んでいた日々が続いていたし、それも病院通いだ、さもありなん。くわえて移動の新幹線も混雑していて風邪も流行っていたから。

私は、かかりつけの耳鼻科に駆け込んだ。投薬と処置のおかげですぐに熱はさがり、のどの痛みも治まっていった。

ところが。いや、いつもと少しちがう。治り方がちがった。熱ものども落ち着いてきたのに、体がしっかりしない。

急いで耳鼻科を再診すると、医師は「インフルエンザじゃない?」と言った。

いやいや、私はインフルエンザにもり患したことがあるが、あのときのしんどさではない。

週末、様子を見てみることにした。

とはいえ、母から、父の看取りのための退院が決まった、という連絡がはいった。

喪服のちゃんとしたのを買わないといけない。葬式用の靴も新調したい。父の晴れ舞台だ、自分に恥ずかしくないように、と私には気合がはいった。

まだ体が動くうちに、ととりあえずデパートへ走った。靴売り場にいくと水を得た魚のように試し履きやデザインを眺めて楽しむのが常の私だが、このときばかりはあれこれ見てまわる余力はなかった。店員さんの助けをかりて、きちんとした靴を購入した。

暖房のせいか、着込んでいたためか、マスクをした顔がすこし熱いように感じた。「もうだめだ。喪服は今度にしよう」。私はデパートを後にした。

今思い返しても不思議なのだが、靴選びだけであんなに疲れていた私は、あの後直帰せず、なんと眼鏡を新調した。なぜそんなことをしたのか、自分でも理解不能だ。今まで買っていたものの3倍くらいはする高価な凝ったツルの眼鏡を選び、検眼もして、注文して帰った。

そして、喪服。その夜、ある老舗メーカーのものをネットで探し、試着サービスを使って、2デザインをサイズ違いで4着送ってもらうよう手はずを整えた。

そんなことをしているうちに、私の体は徐々に操縦不能になっていった。立ち上がれない。仕事に行かれない。これは、まずい。歩けない。たいへん、まずい。

月曜午前、徒歩3分の、これまたかかりつけの消化器内科へ、ふだんありえないことだが、タクシーで行った。

胃腸炎だった。「1週間は絶対安静、仕事は休むように」と。そして、コンビニ袋いっぱいくらいの薬の束をもらった。

それからの1週間は死にそうな地獄のような日々だった。まずは食べ物のこと。そして運動機能の低下。

「私、『死にそう』って、お父さんは現に死にかけてるし。現実って、なんというかシュールやわ」と、病の日々にもとても冷静な自分がおとずれた。

それにしても、人は、1週間寝たきりになるだけで、こんなにも筋力を失ってしまうのか。

そして、父のことを思った。
「私は、ぜったい、間に合わせないといけない。必ず治して、もう一度会いに行くから。必ず待っていて」。

体の調子がよいときを見計らって、ダンボールの中の4着の喪服を試着し、シンプルなデザインのほうを選んだ。

胃腸炎からの一刻も早い快復と、父の命の灯の時間を、心の底からただただ祈る毎日だった。

体力はまだ到底もどっていなかったが、早朝の新幹線に飛び乗ることができたのは、結局2週間後だった。喪服と靴、お数珠やバッグなど一式を詰め込んだバッグを携えて。

故郷に着くと、駅前からタクシーで施設に向かった。事情を話すと、タクシーの運転手さんはスピードをあげて秘密の近道を走った。

父は、待っていてくれた。

私が話しかけると、目を見開いた父は、涙を流した。

その日担当の介護士さんが、「早く帰ってきて、と思っていたのよ。ほんと、間に合ってよかった」と言った。

まだ懸命に生きている父。その父の旅立ちを見送る喪服を、娘である私は今隠し持っていると思うと、どうしようもなく申し訳ない気持ちになった。
そして、バッグを父のベッドからできるだけ遠く物陰に置いた。

父と私の二人だけの時間は、この時が最後だった。

それからの1週間というもの、静かな静かな時間が流れた。父の気配はしだいに薄くなっていく。点滴が1本、父をかろうじてこの世に繋ぎとめているようだった。

家族で父を見舞った夕方、担当の介護士Uさんは、「もう、いつでもおかしくない」と言った。

私は、父の右肩に手を置いて、さようならを言った。

その夜、「満月ですね、今月はスノームーンだそう」と友人からのメールが届いた。

幾日ぶりだろうか、私は空を見上げた。真冬の凛とした空気に漂うたくさんの星たち。実家の窓から眺めた満月は馴染みのある香りがした。

「あぁ、来月の満月の頃は、お父さんはもういないんだ...」と思った。

2020年1月~2月
2022年9月8日 記  

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