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ミモザの候 4: 同世代の主治医
父は78歳で亡くなった。
介護施設付きの訪問主治医は父と同世代の男性だった。一度父の容態が悪化した時、私は初めて彼と会った。主治医を追った私は、廊下で、意を決して、あとどれくらいもつのか尋ねてみた。他の家族には内緒だった。
彼は、「はっきりは言えないけれど...」と言葉を濁した。私が、「2,3か月ですか?」と迫ると、静かにうなずいた。
父は日頃からとてもカンのよい人、というよりも神経が過敏な人だった。ちょうど病院での精密検査から戻ったその時は、車いすに座ったまま個室に入れられていた。その部屋で、父と家族を前に、主治医は病院から渡された検査結果をみながら状況を説明した。
主治医との廊下での話を終え部屋に入っていくと、父だけが車いすに座ったままそこにいた。他の家族は介護士さんたちとリビングダイニングで話し込んでいた。
唐突に、「わしは死ぬんか?」と父は私に尋ねてきた。しばらく聞いたことがないような、しっかりした声だった。「そんなことない、ない。大丈夫。今、お医者さんと話してきたし。それに今やって、こうして話をしてるやろ?」と、彼の背中に手を当てとっさに返事をした自分がいた。めまいがした。
私の体中を大きな渦が巻いている。なんだか妙な時空に自分がいる。それでも、これは自分だ。たくさん看取りをしてきたであろうあの主治医の佇まいと、その波打ち際をただよう父と、娘として見送ろうとしている私。残り時間の宣告に、ついにその時がきたのだと、震える気持ちもあった。
はじめて主治医と話したこの時は、正直、すこし心もとない感じがした。治療の限界を説明してはくれたが、それは裏返しに、もうあきらめるように、と説得されているように感じた。家族の直感として納得できなかった。
いや、まだ、だ。
実際、父はこの後、奇跡的な復活を遂げ、翌月には念願の一時帰宅をやってのけた。しばらくして往診で再会した時、「よかった。医者も間違えるからなぁ。よかった」と私に話しかけてきた。ぐっと、心の距離が近くなった。それ以後、面会に彼が居合わせた時には、リビングダイニングの父のベッド脇で世間話をするようになった。
秋の深まる頃、父は食が急激に細くなった。眠っていることが多くなった。ちょうどその頃、彼は私をつかまえて、ふいに、「え~っと、赤い糸って曲、知ってる?聴いてみたらいい」と言った。「いいえ、知らないです。誰の曲ですか?」「う~ん、誰だったかな。う~ん、出てこない。紅白に出て歌ってたやろ?」「私、紅白観ないから。さだまさしさん?」「違う。知らんかなぁ、有名な。とにかく糸、そんな曲」、「はぁ...」。
結局、私はその曲を聴くことはなかった。誰の何という曲かを探しもしなかった。それは、聴いてしまったら、お別れを言う時がきたと自覚しなければならない、と自分でも察していたからだと思う。同時に、これが主治医である彼の優しさだということもよくわかっていた。
父が命の最後の時を刻むにつれて、主治医と私とは無言の挨拶を交わすようになった。看取りのための退院から後は、ただ目と目を合わせてうなずいた。私たちは、まるで戦友のようだった。
死因は「老衰」。延命はせずに自然死で、という家族の想いを完遂させるべく、主治医として彼は力を尽くしてくれたと思う。点滴を徐々に減らし体が不自然にむくまないようにして、父に最後の時を迎えさせてくれた。元看護士だった父担当の介護士さんは、とくに顔や耳に傷や出血が残らないように、薄く薄くなった父の皮膚をマッサージしてくれた。
父はほんとうに穏やかな顔をしてその命を終えた。
振りかえってみると、最初に余命宣告をされたあの日、主治医のあの佇まいのおかげで、私は、父の死というものを受け入れること、そしてそれにむかって心を開いていくことができたのではないかと思う。人は、死という営為を前にしたとき、その尊厳をこんなふうにも体現し得るのだ、という思いがしている。
2019年6月~2020年2月
2022年8月28日 記