見出し画像

ミモザの候 22: 父と母

葬祭場の控室で私は父と対面した。ちょうど皆が席を外していたようで、穏やかな日が射す広間の片側にポツンと、父と私はいた。

しばらくした頃、母がやってきた。
「おとうさん、カッコイイやろう?」と開口一番。

「いろんな人間の欲みたいなのが落ちて、すっきりして。ほんとうにカッコイイわぁ」と続けた。

まぁ、父の顔はやつれてはいるものの、いやそのせいもあってか、高い鼻筋はいっそう高く見えた。でも、えぇっ?そこなの?


たしかに、肉体としての人間を卒業するとき、人は幾分かの「軽さ」をまとうように見える。

死に向かう準備において、本人はいろんなものを削いでいき、それを見届けるかのように周囲はいろんなものを手放していく。そして、命が尽きたとき、その手を放しきる。

旅立つ人と残された人たち。亡骸にそれまでの故人を探し出そうとする人々の想いが、別れ難さとなって、目の前の故人がまとう旅立ちの「軽さ」と攻防しているのかしら。そういえば、昔、『21グラム』という映画を観たな。人の魂の重さ≒21グラム。


家族の誰一人として、父の亡骸にしがみついて涙を流す、といったドラマのシーンのようなことはしなかった。淡々と、いや妙な表現だがひょうひょうと、葬儀は執り行われた。

別れへの名残はたしかにあった。しかし、寂しさを隠すための強弁のようなものはなかった。


今思うと、あれは家族としての矜持とでもいえるだろうか。

父という人、父の命というものへの尊厳を守るためだったのかもしれない。

そして、母のあの言葉。

それは、命を生き抜いた父への、母からの最高の賛辞だったのだ。

2020年2月
2022年9月23日 記

いいなと思ったら応援しよう!