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塾という「場」 3 ー場としての塾をめぐってー 学びの評価

(承前)
③塾での学びの評価とは?
塾での学びに対する評価についても、公教育のそれとは多少異なる側面があるかもしれません。
これまで述べてきた、主体、そして主体をとりまく諸条件がここに大きく関わってくるようです。
 
てがかりに、誰が評価するのか、何をもって成果として評価するのか、という点について考えていきたいと思います。
 
(i)誰が評価をするのか
塾での学習をめぐっては、常に複数の要因がつきまといます。
 
評価に関して、とくに、誰が評価をするのか、については、正直に言って、各家庭内の力学に左右されるところが大きくあります。それは、子どもを塾に通わせる動機が、そもそも、さまざまだからです。
 
たとえば、不登校の生徒であれば、居場所を作り復学のきっかけとしたいという保護者の願いが子どもを通塾させる動機になりえます。また、大学浪人生であれば、志望する大学の偏差値をなんとかとりたいという本人の願いこそが唯一の動機になるでしょう。勉強嫌いの中学生が保護者に「連れてこられる」とか、なんとなく「友達が通っているから、勉強しないとまずいし」という生徒本人のタイミングも塾通いを始める動機となります。
 
忘れてはならないのは、たとえどのような動機で塾通いが始まったとしても、学力の向上が最終的には通塾の目的となります。これは、生徒本人にとっても、また保護者にとっても同様のことが言えます。したがって、受講料の対価は学力の向上である、といった前提は間違いなく存在します。
 
では、学力をつけることが目的ならば、予備校でよいのではないのか?あるいは、通信教育でもよいのではないのか?こうした疑問が浮かび上がってきます。
 
ここで、塾という場に特有の、以下の要因が絡んできます。
つまり、
・公教育とは異なり、塾通いは任意であって、
・きっかけは、生徒本人が通いたいと望む時もあれば、親が通わせたいと導く時もあり、
・退塾もまた任意であり、
・学びの主体は生徒であるものの、それを継続するための受講料の支払いとその決定権は親が担う、
ということです。
 
これらの要因は、塾に関しては想像以上に大きくダイナミックに作用します。つまり、学力の向上が求められてはいるものの、それ以外の部分で、なにかしらの秘められた本人さらには保護者の満足を満たすことが期待されているようなのです。
 
そして、とうとうある種のカオス状態が発生します。
それは、塾での学びに対する評価が生徒と保護者では往々にして異なる、というものです。
 
たとえば、生徒に学力がつき自信が持てるようになって、自学のプロセスへと移行しはじめている場合でも、生徒をとりまく諸事情のために、たとえば家庭内で親子の会話がない、親子関係が良くないといった場合や、期待値ありきで子どもに学力を求めている場合、塾での学びに対する親の評価が子どものそれとは異なることがあります。
 
また、保護者が子どもの学びにある意味無関心な場合や教育システム等に無知な場合も、生徒の評価と保護者の評価が異なることがあります。
 
これらに各家庭内での力学や諸状況が加わり、生徒による学びの評価に関わらず、退塾につながることがあります。
 
逆に、目に見える形ではまったく学力が向上していないにも関わらず、生徒本人は満足し、保護者もよろこんで通塾を継続させているという場合もあります。
 
このようなさまざまな要因が交錯するなかで、塾という場において教育者ができることは、終始一貫して、「生徒と対峙する」ということです。「向き合う」というよりも、むしろ「傍らにある」。同じ方向を眺める「恋人座り」のイメージです。生徒一人ひとりとチームをつくり、まるごとを受け止め、伴走する者として、影日向になって、時には叱咤激励しながら、常に傍らにあり続ける、ということです。
 
そうして共に時間を過ごしていくと、自然と、まずは生徒の側から受ける評価が、学力の向上を理由とするものだけにはとどまらず、それを超えたものになります。
 
また、指導者の側からの評価として、生徒の学習状況は毎回記録にとり、毎月保護者に報告することになっていますが、これらのやりとりを含め、学力だけではない生徒の変容を何かの折に家庭内で保護者が発見したときには、三者の間にたいへん強い信頼関係が生まれます。
 
どうやら、学力の向上以外の部分で、塾という場に求められているものがあるようです。
それでは、いったい、何を、評価される「結果」として見ればよいのでしょうか。
                             (つづく)

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