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ミモザの候 20: 名前をもたない時間

あの日以来、私はずっと、不思議な時間をもち歩いている。その時間に名前を与えようと、幾度か試してはみたものの、言葉がするりと舞い上がっていく。

あの時間は、なんだったのだろう。

 

私が父と再会したのは、父が息をひきとった翌日の、たしか午前10時過ぎだった。

駅から直行した初めて訪れる葬祭場のなかを、ネームプレートを確認しながら進む。

途中、他家の祭壇が目に入った。色とりどりの花のなかにピンク色のドレスを着て微笑む若い女性の遺影が飾られていた。

 

1階いちばん奥の大きな控室の、畳の上で父は眠っていた。いや、安置されていた。すでに枕づとめは終わっているようで、枕飾りが設えられていた。

偶然、その場には誰もいなかった。線香の香りとろうそくの灯が漂う静寂のなかで、私は真っすぐに眠る父と再会した。

それは、父だった。

いつものように、父に声をかけてみた。

しかし、すでにそこには消されることのない、越えられない境界線が薄く一本ひかれていた。

 

私の心はどこかにしがみつこうとしていた。それまでの「いつも」に、あるいは、これからの「いつも」に。

しかし、どこにも、「いつも」はなかった。

 

時間は流れていった。

 

告別式をひかえた朝、気忙しさから逃れるように私は2階の式場へと向かった。そこには誰もいなかった。

いや、真っ白の花々の中央に父がいた。遺影、そしてその下の棺の中に。

入り口からまっすぐに、ゆっくりと父に向かって歩いて行った。

花の香り、線香の香り、ろうそくの灯る香り。照明と花の白さがまぶしい。そこは静寂が満ちていた。しかし、かすかに柔らかな空気もまとっていた。

 

「お父さん」と棺の中の父をのぞき込む。昨日と変わらない。父はさっぱりした顔をして眠っていた。

私は近くの椅子に腰を掛け、ゆっくりと祭壇を見渡した。

何ともいえない、名付けようのない何かで、私の胸はいっぱいになった。この場すべての力をかりて、父が今何かを伝えようとしていると思った。

でも、私には、それが何かわからない。

涙はこぼれそうだけれど、こぼれない。

 

私はひたすらに、その場を満たしている何かのなかに身を置くことにした。父の想いに、ただただ身を任せることにした。

しばらくの間、私は座っていた。

徐々にはっきりと、太くなっていく生と死の境界線。その上に父と私はいた。

時間が通り過ぎるのを感じていた。

 

いくぶん身体が疲れて腰を上げた私は、もう一度父の顔を覗き込んだ。

そのとき、ひとつ、父の想いが伝わってきたように思った。
それは、私に託されたもの。

 

さて、季節が一巡りする頃だろうか。すっかり日常へ戻った私の生活のなかに、動画のお勧めで玉置浩二さんが歌う「行かないで」が飛びこんできた。かつて見たことのあるそれを、私は何気なくクリックした。

 

オーケストラのたゆたうような優雅な演奏のなかに、彼の美しいファルセットが響く。

「あぁ、行かないで...行かないで...」

音が心を包んだ。私は恥ずかしいほどに、号泣した。

あの朝あの場で過ごした、名前をもたないあの時間に、ようやく自分の気持ちが付されたように思った。この歌に私はあの時の自分の心を教えてもらったのだった。

 

そして、今。私はこうして、あの時間にふたたび、向き合っている。

色即是空、空即是色。

あの時空を愛おしんでいる。 

2020年2月
2022年9月20日 記


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