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塾という「場」 1 ー学校の先生たちにむけてー イントロ
1 イントロダクション
みなさんは塾という場について、どのようなイメージをもっていますか?お子さんを塾に通わせている方はどのくらいいらっしゃいますか?担任する生徒の何割くらいが塾に通っているか、ご存知ですか?
一般的には、塾は、「学力を伸ばす場」だと考えられていると思います。具体的には、受験や進学のための学力や偏差値のアップ、また定期テストの対策、そのほか日々の補習といったイメージがあります。
確かに、塾の役割は、第一義的には学力をつけることです。もちろん、子どもを塾に通わせる親御さんの大きな目的はそうですが、気づいているか否かにかかわらず、生徒本人の目的も学力向上です。
しかし、塾という場が提供しているものはそれだけではありません。
学校の教室で豊かな時間が流れているのと同様、塾という場においても、また違った、生徒の豊かな時間が流れています。
残念ながら、塾という場は、公教育の場における共同研究のように、研究者が現場に入り、量的質的調査をして、その結果を公表していくという、調査研究の場としての性格にはまったく馴染みません。むしろ、それをやってしまうと、かえって塾の存在価値が揺らいでしまうという恐れさえあります。
しかしながら、調査研究に馴染まないからという理由で、塾という場が、学びの場としての価値を失うわけではありません。
そして、私が知るかぎり、こうした塾の役割に言葉が与えられ、公教育に現場で携わっている方々に伝わるということ、その知見が共有されるということは、これまであまりなかったように思います。
ここで留意していただきたいのは、決して、現在の公教育の在り方を否定するものではないし、また、優劣をつけようとするものでもない、ということです。
むしろ、私の目的は、
①学校に通っている生徒が、同じ時期、またひとつの違った学び方をしている「場」があるということ、
②そして、そうした学びの在り方、場の在り方、生徒の在り方に言葉を与え、伝えることによって、それが、今度は、学校での学びをつくる新たな視点を提供する、その一助になりたい、
ということです。そして、
③そのことを通じて、公教育に関わっている方々への何かしらの応援になれば、
という思いがあります。
私個人としては、研究者としての研究活動に並行して、塾という場における学びに関わって20年以上が経ちます。
ここで、私の立ち位置を少し明確にしておきたいと思います。
よく、「理論と実践の一致」といわれます。コミュニケーション、インタープリテーションというテーマに関心をもつ者として、私は、どちらかからの理論を一方的に指導、レクチャー、教示するということよりも、むしろ、双方向性に着目しています。理論と実践の「一致」というところです。何を伝えるのか、何が伝わるのか、どのように伝えるのか、どのように伝わるのか、そしてその結果何が生まれるのか、といったことです。
私は、先生方それぞれが、現場でプロとして実践してきたなかで獲得してきた「理論(小文字)」をもっておられると思っています。私にはそれを否定するつもりは全くありません。むしろ、各々の固有性として最大限に発揮していただきたいと思っています。
ある先生の見る世界は、その先生にしか伝達できないものです。それは、実は、ご本人が一番よくご存知で、かつ上手に生徒に伝えられるものです。先生それぞれにその先生「らしさ」があって、そうしたそれぞれの固有性を活かしてこそ、ひいては、豊かな学びづくりに繋がるのだとも考えています。
問題は、往々にして、共同研究というものが、研究者たちの大文字の理論を無作法にも教育現場に持ち込み、それぞれの先生が培ってきた小文字の理論と何らすり合わせることなく、半ば機械的に仮説を展開し、結果だけを実践現場から持ち帰ることです。研究成果が現場に知見としてフィードバックされること、ましてや、同僚の先生方に共有される機会はほとんどありません。
実践者の理論に還元されない理論は実践テクニックでしかありません。したがって、実践者をとおして生徒に伝わるものも、つまり学びの質においても、もちろん表面的なものとなるでしょう。
研究と教育現場の間には、深い文化的断絶がある、と言えると思います。そして、教育システムのど真ん中での、このようなありようを、私は大変疑問に思っています。
今回、私が先生方の世界に持ちこむのは、私もまた、ひとりの教育者として、現場で学びづくりに関わりながら(「理論(小文字)と実践」)、他方、研究者としてその学びの在り方を俯瞰的に眺め、「理論(大文字)」的に検討し、それを私の言葉として表現したものです。
そして、ここはたいへん重要だと考えることなのですが、それが「理論ありき」でスタートしたものではない、ということです。
まず目の前に生徒が存在し、彼ら一人ひとりと向きあう。一個人として矛盾なく取り組んできた実践のなかで見いだした理論。それを長年続けることで、機が熟し、一個人として矛盾のない、研究者としての理論的知見を照らすことができました。
これまで送りだしてきた多くの生徒たちが、自分たちの在り方の不在を、これもまたひとつの知見として、皆さんに広く伝わるように、私を通して顕現させたのかもしれません。
したがって、私の立ち位置、在り方としては、どちらかというと、皆さんに近い実践者といえるでしょう。
私は、生徒であれ、教師であれ、研究者であれ、それが誰であれ、悩みや痛みをもつ人がいれば、共に在って応援したいと思います。また、産みの苦しみを抱えている人がいれば、共に考え、面白がって楽しむ「産婆さん」のようでありたいと思います。
また、これから皆さんと共に過ごすなかで学ばせていただいたこと、つまり、実践者の実践の理論を、今度は専門的知見として、研究の理論に反映させていく。そして、研究の場で何が生まれるのか。
こうしたことも、実践の「現場」と研究の「現場」との知の往還を担っていく、「理論と実践の一致」をはかるための、私の責務であると考えています。
皆さんと同じように、私も教育に関わる者として、教育の無限の可能性を拓いていければと思います。
親御さんとして、教育者として、またいつかのピチピチの学生の一人として、さまざまな視点が交錯すると思います。お楽しみいただけたら幸いです。