道路空間の屋上論
幸せな空間、時間、体験
2022年10月10日で、青葉通の社会実験は終了を迎えた。
終了した今でも、あの幸せな空間、時間、体験はいったい何だったのだろうと思い返している。たぶん、そう感じているのは私だけじゃなく、あの場に関わった人、訪れた人は皆、これに近いわだかまりを感じているのではないかと思う
そのわだかまりを、言葉に変えることで少しでも前に進める糧にしたい。
前に進むために、私なりあの空間を言葉にすることが大事なんだと思う。
少なくともあの社会実験に関わるにあたって、大切にしていたのは、「これ以上、まちづくりを消費しない、まちづくりに哲学や思想が必要だ」ということ。
これを踏まえて、社会実験に関わる2年前くらいの自分の言葉や考えを引用しながら、素晴らしい空間をデザインした方に敬意を表するとともに、どのような想いで臨み、何を感じたのか、あの空間を言語化したいと思う。
あの空間を特徴づけたもの
今回の青葉通の駅前エリアの社会実験の屋外空間デザインの特徴は、高低差の異なる道路空間という変化の付け方と、計画段階からそこに秘めた小さな社会的課題と向き合っていく公共空間の理想像(役割)を問うストーリーだと感じてる。
今回の社会実験を一言でいうと、
①道路空間の機能性を無目的化し、②無目的な公共空間を意味化するチャレンジ、③そこに居て良いと思える記号化することだと思う。
ここからは、私が担当する中で、空間デザイン担当や関係団体とのやりとりなどの回想も交えながらこの場所で目指したことと、その意味を3つにまとめた。
中高生のデートコースになるような空間
1つ目は、中高生のデートコースになるような空間を目指したこと。
地方都市ならではの、良くも悪くも顔の見える地元コミュニティから離れて、匿名性を持てる場所としたこと。『どこにでもあるどこかになる前に』や『傲慢と善良』を読み返し、就職を機に地元を離れた主人公が久しぶりに帰省した地元で過ごした時に感じた違和感などに似ている。
中高生のデートコースというのは、わかりやすい例示であり、懐の深い公共空間で解決したい根本的な問題は、中高生のいじめや不登校を抑制すること。
宮城県は、全国的に見ても、いじめや不登校の児童数が多い都道府県である。とくに中高生の行動圏は親の移動範囲に左右されるという。
たとえ学校で嫌な事があっても、思春期の彼等にとっては家族に相談できないこともある。そんな逃げ場がない時に、追い討ちをかけるように手元の電子端末には、SNSで誹謗中傷が飛んでくる。時間だけが無心でやり過ごせたらいいのに、進路や進学のプレッシャーがのしかかる。そんな毎日を考えただけでも想像を絶する。
昨今は、公共空間を商業施設のように再開発する事例が増えている一方で、お金を払わなければ滞在できない(またはそのように想起する)空間が増えている。
大人はお金を払って飲み屋や好きなお店に逃げ込める。では、お金と行動圏が限られた中高生以下の子どもはどこに行けばいいのか。
そんな生き辛さを感じたときに、しがらみや他人の視線を気にせず、ふらりと立ち寄れる居場所として公共空間が、街なかの駅前中心部に必要だと思った。
そんな懐が深い文化的な公共空間を駅前一等地に作りたかった。そう、駅前に寛容性ある文化が必要だ。
表現の舞台を駅前側に設ける
2つ目は、表現の舞台(ステージ)を駅前側に設けたこと。
空間としては、既存のペデストリアンデッキと階段およびエスカレーターに併設させることで、一体的なアリーナ席付きのステージのような囲われ感を演出したこと。空間としては仙台駅を背にしてもステージとなり、振り向けばペデストリアンデッキ上の観客に向けて声が届けられる。
仙台駅前のストリートミュージシャンは、昔から仙台の風物詩であり、夢見る若者のチャレンジを応援する場所の心象風景だった。
これについては、社会実験前に多数の団体と意見交換した際に、「仙台駅前でストリートミュージシャンの演奏を聴いてたとき、サビに差し掛かったところで警察に注意されて路上ライブが終了したため、サビが聴けなかった」というエピソードがあった。
それを踏まえて、警察に注意されずにいつでも自己表現できる文化的な場所を駅前の一等地に設けたこと。
ペデストリアンデッキの屋上化
3つ目は、ペデストリアンデッキの上から観る景色である。
振り返れば2年前に読んだ、『まちづくりの哲学 〜都市計画が語らなかった「場所」と「世界」〜』/宮台真司、蓑原敬という本の中で、宮台真司氏が「屋上論」を語っていたことに深く共感したことを思い出した。
ペデストリアンデッキは、通行するための機能的な場所だったところを、社会実験エリアを一望できる視点場とすることで、道路空間に対する"屋上のような役割"を果たした。
宮台真司氏の屋上論にあるとおり、学校や商業施設、雑居ビルなどの屋上には、通常は無機質に室外機や機械が置かれて機能がない。
地上では歩くことを促され、学校や仕事では見えない使命感が求められ、時に窮屈さを感じることもある。
屋上の機能の無さは、そうした社会のしがらみから解放してくれ、何もしなくてもそこに居て良いと感じさせてくれる存在だという。
様々なドラマや映画では、しがらみや現実から目を背けたい時や主人公が物思いにふけるシーンでは、屋上が多用されるのもこの影響を表現しているといえる。
そして、韓流ドラマに屋上シーンが多いのも、身分制度が厳しい日常生活から逃れられる場所であり、屋上から見る景色は、所得格差に関係なく、平等に与えられている共通資本として用いられているように思う。
社会実験前までのペデストリアンデッキは、時々見下ろすことはあっても、立ち止まることはさほどなく、単なる通過動線でしかなかった。
この社会実験では、ペデストリアンデッキに寄り添い一体的かつ立体的に道路空間を利活用することで、ペデストリアンデッキを屋上的な場所へと変えられることに気づかせてくれた。
場の魅力を高めた目に見えないもの
最後に、まとめに変えて、この社会実験では多彩な表現の場と、細かな演出が空間全体の魅力を高めていた。そして、それに呼応するように、ここを訪れた人が想い想いに自分らしく過ごしていた。
一つひとつが果たした役割は説明されなければ小さくて気づかないほどだが、そこに詰まっている挑戦と配慮の数々が全体の良さを醸成していた。
消費か、投資か。商業か、文化か。
商業施設は、巨額投資すれば作れるかもしれないし、それによって消費がうまれ短期的な経済効果は得られるかもしれない。
しかし、文化や芸術は思いある人と投資と哲学がなければ生まれない。
どちらか一方ではなく、どちらも大事だと思う。でも、両方を同じ場所にある必然性は感じられない。
そこに、成熟時代と開発優先のまちづくりに対する批判的かつ将来性ある文化的な空間づくりのヒントがあると思う。
すべては、見えないものを信じて感じ、少しずつ具現化することから始めていきたい。