怒りと悲しみの話
知っている誰かが亡くなるたびに、なぜ日本の仏教において「ご供養」が重視されるのかという話を思い出します。
日本においては誰かが亡くなった際には仏教式に弔う事が一般的で「お葬式」と聞くとほとんどの人が喪服を着て霊前で読経することを想像されるかなと思いますし、その後の「四十九日」とか「〜周忌」みたいなやつでも大体同様のものが催されます。
そして、これらのセレモニーの意味や目的については「死者の魂が安らかに眠れるように皆でお祈りしましょう」とか「化けて出ないようにちゃんと供養しましょう」とか「坊さんが食っていく為」みたいなところにあると思われてる方が結構おられますが、実は全然違うというのを僧職の方から聞いたことがあって、個人的にはその解釈に深く得心したので、本稿を通じて共有いたします。※プリーストが食っていく為というのは事実です。
宗派によってお葬式や四十九日的な行事をまとめて「法要」と呼んだりしますが、「法要」というのは本来「釈迦の説法を聞くこと」を指す言葉であって、皆でお祈りしましょう的なものでは無いそうです。そして、亡くなった方の事を「仏」と呼んだりしますが、法要というのはこの「故人=仏=釈迦」から学びを得ることを指しているらしいです。
しかし、「仏から学ぶ」というのは口寄せやチャネリング等で実際に故人とコミュニケーションを取る訳ではなく、「人が死ぬ」という事象そのものから自分自身の生を考えるというのが本来の法要における「説法を聞く」に値するところであって、「誰かが亡くなったという事象を通じて自分自身を見つめ直すきっかけを賜ったことに対する感謝」というのが、香典であったりお供え物であったりするというのが本筋であり、その中でプリーストは「自分自身の生を考えるためのガイド」という役割を担っているからこそ、そこにギャラが発生するという考え方です。
このように誰かが亡くなった際には、別れを惜しみ、悼むだけでなく、そこから何かを学び、自分自身の生にフィードバックする事が重要という考え方は、個人的にかなり腑に落ちるところがあって、自分にとっての「弔い」とはそこでやっと完成されるのかなと思います。
今回はそういう話です。
「誰かが亡くなる」と事象自体は毎日どこかで必ず起こっている出来事であって、火葬場は今日も絶賛フル稼働中とのことですが、一般的には「生物の死」には「悲しみ」のイメージが伴うと思います。
「誰かが死んだとき、何故悲しいと感じるのか?」ということを考えてみたとき、「悲しみ」が発生する前段には必ず「理想とする状態」が存在することに気付きます。
人の死においては、「その人がいる状態」が「理想とする状態」であり、その人の死によって「理想とする状態」を実現できなくなったこと、つまり「理想と現実のギャップを認識すること」が「悲しみ」という感情の正体なのかなと思います。
その他の「悲しいとき」について考えてみても、やはりそこには必ず「理想とする状態」が存在していて、夕日が沈んだときも「楽しかった一日(理想)が終わってしまうこと(現実)」や「(太陽の動きから時間の不可逆性を想起して)戻りたい(理想)けど戻れない(現実)」などがあるからこそ「悲しい」という感情が生まれてくるのかなと思います。
しかし、同時に「怒り」という感情について考えてみたときにも、その根底には「理想と現実とのギャップ」が存在していて、それに対してのやるせなさという点においては「悲しみ」と「怒り」の源泉は同じものではないかと思います。
「理想と現実とのギャップ」が「悲しみ」となるのか「怒り」となるかの分水嶺となるのは「そこに明確な原因(怒りの対象)が存在しているか(認識しているか)」だと思っていて、例えば自然災害で誰かが亡くなったことについて「地震が起こったこと」や「雨が降ったこと」に憤る人はいなくても、「避難案内が不十分だったこと」「治水計画に不備があったこと」について怒りを露わにする人はいるだろうなと。
「怒りの矛先が向かう」という言葉も「向けられる矛先があること」を意味していて、「やり場の無い怒り」は即ち「悲しみ」と言えるのかもしれません。
こうやって考えてみると、あんまり物事に動じない人が秘訣を聞かれたときに「もとから期待してないだけだよ」って答えるのは、恐らく「理想を持たない」というニュアンスなんでしょうし、現実をあるがままに受け止めることで平穏な心でいられるというライフハックなんだと思います。
吉良吉影も目指してるところは同じだと思いますが、本人のコントロール不能の性癖がそれを許さないというところに「葛藤」が存在していて、それ故にあれだけ魅力的なキャラクターとして存在しているのかなと思います。完全に余談ですが、ジョジョ第4部を描いていた頃(92〜95年)の荒木先生は30代前半で、この頃から「人物」の描写がより一層複雑になっていることを考えると、大体その辺りで「少年漫画」とは別の展開を見据えられたのかなと思いますし、「心の平穏(少年漫画家としての安定)を求める一方で衝動的なもの(描きたいものを描きたい気持ち)に突き動かされてしまう」というせめぎ合いが、吉良吉影に投影されていたのかもしれません。
このように「理想を持たない」というのが不動心を培うために大切な要素であることは間違いないと思いますし、「変に期待して一喜一憂するくらいなら、最初から期待なんかせんかったらええねん」というのが涅槃への第一歩なのかなと思いました。
とはいえ、やっぱり他者に期待してしまう気持ちを捨てるというのはそんな簡単なことではなくて、特に自活能力というか何事においても「自分でやってしまう」ということができない(苦手な)人にとっては、他者に期待しないというのは死活問題にすら関わってくるんでしょう。
身体的な要因は特に無いはずなのに「なんか怖いから」という理由で電球すら替えられない人とかは普通にいますし、不思議と「自分でやる」という選択肢を持たない(ように見える)人は世の中に結構おられます。
そして、その原因は単純な怠惰であったり無力感や過去のトラウマなど、多分色々とあるんだろうなとは思いますし、それ自体をとやかく言うことも無いんですが、そういう人が他者に勝手に期待して怒ったり悲しんだり、更にその感情の発露に対する周囲の反応を期待していたりするのが窺い知れると「この人に振り回される人は大変だろうな」と思いながら、ただ静かに銃爪を引くことにしています。
ちなみに、他者に期待してしまう気持ちを捨てるためには筋トレをやるのがいいと思います。誰に対しても「どうせコイツも本気で殴れば死ぬ」と思っていれば、脆弱な存在に対する慈悲の気持ちしか湧きませんし、身体の弱い方は銃を持ち歩いても同様の効果を得ることができます。
暴力は全てを解決しますね。