ミッドサマー 感想 ネタバレ注意

ミッドサマー  ディレクターズカット版 約3時間 あらすじ省略

エンドクレジット後、観客が一斉に席から立ち上がると、俺は妙な一体感を感じた。「やっと終わった」「この地獄から抜け出せる」誰かが言葉を発したわけでもないのに、全員が気怠く立ち上がる姿から、確かにそのような意識を共有した。初めての体験だったので、印象に残っている。


この映画の怖さは"一線を引けない"同一性にある。ホルガ村に住む人々は、我々と多くを共有しているし、道徳の点でも、明確な線を引けない。まさに、白夜。あの村に恐ろしいB級な怪物が、1体でもいてくれたら、観客はどれほど救われただろうか。

確かに崖のシーンでは、恐ろしい慣習を持つ、異質なカルトの姿が垣間見れる。非常に残酷だ。しかし、あのカルトの社会システムも、全部が全部異質なわけではない。例えば、現実世界でも我々は、既存のレーンに従い、多くの者が何も疑わず、資本主義というゲームに参加させられている。メイクイーンを決定するゲーム=メイポール・ダンスは、そのメタファーなのでは?劇中でも言及されていたが、親が高齢になれば、子は老人ホームに姥捨をする。実際に手を加えるホルガ村と比較すると、現実はマイルドだが、残酷と表現するには、十分なのではないか。

もっとわかりやすい例は、美意識だ。この映画は美しい。映えるインスタ広告から、この映画を知り、カップル(地獄)または、女性同士で鑑賞に訪れた人も多いだろう。ホルガ村は観客と、確かに美意識を共有している。"一線を引けない"要素の一つだ。対照に、山田・上田の凸凹コンビで有名な日本ドラマ「TRICK」では、毎回、田舎の方言のきつい、薄汚い村に足を踏み入れる。この構造だと視聴者は、物語を異質なものとして、線引きをしやすい。

「二度と見たくない」                         

これは、ミッドサマー に対するFilmarksのレビューや、Twitterで多かった感想だ。境界線を引くことはやはり、本質や恐怖から目を背ける、手軽な手段なのだなと再確認した。


自らの心の拠り所はどこか。映画「ミッドサマー」 は、こう疑問を突きつける。映画冒頭に、家族全員を失った悲劇のヒロイン、ダニーは、彼氏や薬に寄りかかるようになる。しかし、彼氏にはダニーに対する愛がないし、とにかく居心地が悪い。みんなを気遣って、無理してやったLSDでバッド入っちゃうし。しかし、最後にはホルガ村と言葉や意見を交わさず、一つになる快感を覚え、絶対的な心の拠り所を見出した。

カルト入りしたダニーは、正解なのか。家族を失ったあと、ダニーにとっては、一線を引くことが苦痛だったのではないか。そして何よりあなたも、全てを失ったら、何を心の拠り所にするのだろうか。

文の冒頭で触れたように、ダニーと同じく、妙な一体感を味ってしまった俺は、まだその答えを出せていない。



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