見出し画像

市民宗教としての社交精神

 貧乏人が四人集まったのだが、金もないし酒もない。要するに何にもすることがないのである。
「じゃ、麻雀でもしましょうか」
「え、麻雀? 私、知りません」
「いや、私も知らないんですがね。知り合いの話では、なんでもずいぶん金がもうかるとか」
「なに、金がもうかるのですか。やりましょうやりましょう」
 誰一人として麻雀を知らないくせに、卓を囲むことになった。
「しかし、これはどうすればいいんでしょう」
「私が以前一度見たときには、たしかこうやって混ぜてましたよ」
 それから一同、何時間も牌を混ぜ続けてくたくたになりながら、
「しかし、なかなかもうかりませんな」

中島らも『アマニタ・パンセリナ』より

1 「ブルジョワ的」な諸制度

 マルクス主義者はさまざまな分野において「ブルジョワ的」という蔑称を使用してきた。世界にはブルジョワ的な政治・ブルジョワ的な経済・ブルジョワ的な思想・ブルジョワ的な芸術が存在する、と彼らは主張したのである。たとえば議会制民主主義はブルジョワ的な政治であり、資本主義はブルジョワ的な経済である、云々。
 一方、「ブルジョワ的」と糾弾された者の多くは、自分たちの政治・経済・思想・芸術は必ずしも一個の階級に紐付けられるべきものではない、と反論した。彼らにとって議会制民主主義や資本主義は「ブルジョワ的/プロレタリア的」という対立を超えた普遍的な価値観だったのである。
 さて。「ブルジョワ的」という蔑称に賛同する者も反対する者も、その大半は「ブルジョワ的」と見做される諸制度に一定の進歩性を認めていた。「ブルジョワ的」な諸制度は「貴族的」な諸制度や「僧侶的」な諸制度の否定の上に成立した。だからこそ「ブルジョワ的」な諸制度は「貴族的」あるいは「僧侶的」な諸制度よりも優れている。こうした主張に賛同しないのは、ごく一部の反動主義者だけだったのだ。
 しかし、そうした「ごく一部の反動主義者」ですら、次の主張には同意せざるを得なかった。極右から極左までを含むほぼすべての近代西洋人は、「ブルジョワ的」な諸制度は、「貴族的」な諸制度や「僧侶的」な諸制度よりも世俗的である、という命題に疑いを挟まなかったのである。かつて西洋に君臨していた「貴族的」な諸制度や「僧侶的」な諸制度はキリスト教、特にカトリックと密接な結びつきを持っていた。しかし「ブルジョワ的」な諸制度とキリスト教の間にそうした結びつきは存在しない。だからこそ西洋人は、前近代から近代にかけて自分たちに起こった変化を「世俗化」として理解したのである。この変化を左派は喜ぶべきものと価値づけ、右派は嘆くべきものと価値づけた。しかしどちらも、この変化が「世俗化」である、という事実判断については疑いを挟まなかったのだ。
 しかし、本当にこの変化は「世俗化」だったのだろうか。たしかに「ブルジョワ的」な諸制度はそれ以前の諸制度と比べてキリスト教との結びつきが乏しい。しかしそのことからすぐに、「ブルジョワ的」な諸制度はいかなる宗教との結びつきも持たない、という結論を導き出してはならない。「ブルジョワ的」な諸制度がキリスト教との結びつきを脱し得たのは、それが新たな宗教との結びつきの下に成立したからではないのか? 無論ここで僕が言っている「新たな宗教」は実在の組織宗教ではない。僕は、キリスト教的とは言えないが、かといって世俗的とも言えない、一種の「宗教的熱情」によって、「ブルジョワ的」とされる諸々の制度は成立したのではないか、と疑っているのだ。
 さて、それではその「宗教的熱情」とは一体どういったものなのだろうか。

2 ルソーと共和国の「国教」

『社会契約論』第四編第八章「市民の宗教について」において、ルソーは〝それぞれの市民をして、自分の義務を愛さしめるような宗教を市民がもつということは、国家にとって、じつに重大なことである〟と述べている。ルソーは自由主義者として知られているが、意外にも理想的な共和国には「国教」が存在すべきだと考えていたのである。しかしルソーにとって、キリスト教を含む既存の諸宗教はどれも共和国の「国教」にふさわしくないものばかりであった。そこでルソーは新たな「市民的宗教」の構想を提案する。少し長くなるが本文を引用しよう。

そこで、主権者がその項目をきめるべき、純粋に市民的な信仰告白がある。それは厳密に宗教の教理としてではなく、それなくしてはよき市民、忠実な臣民たりえぬ、社交性の感情としてである。それを信じることを何びとにも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。主権者は、彼らを、不信心な人間としてでなく、非社交的な人間として、法と正義を誠実に愛することのできぬものとして、また必要にさいしてその生命を自己の義務にささげることのできぬものとして、追放することができるのである。もし、この教理を公けに受けいれたあとで、これを信ぜぬかのように行動するものがあれば、死をもって罪せられるべきである。彼は、最大の罪をおかしたのだ、法の前にいつわったのである。

ルソー『社会契約論』桑原武夫・前川貞次郎訳より

このいささかファナティックな段落のあと、ルソーは「市民的宗教」に採用されるべき教理をいくつも列挙している。しかしそうした個々の教理をここで追うことはしない。ロベスピエールによる「最高存在の祭典」といったごく少数の例外を除き、実際の「ブルジョワ的」な政治はルソーの思い描いていたような「市民的宗教」を国教として採用しなかったからだ。
 それよりも僕は、先ほどの段落においてルソーが「社交性(sociabilité)」という語を用いていることに注目する。キリスト教の信徒はキリスト教に背く者を「神に背く者」と見做すが、市民的宗教の信徒は市民的宗教に背く者を「非社交的(insociable)な者、社交性(sociabilité)に背く者」と見做すのである。このことは、市民的宗教の信徒が真に尊んでいるのは神ではなく社交である、ということを証しているのではないだろうか? 仮に市民的宗教の教理に「めぐみ深い神の存在」が採用されていたとしても、そこで崇拝されている神は社交というより大きな目的のための手段でしかないのだ。
 近代においてもはや神は「宗教的熱情」を引き起こし得ない。近代においては、ただ社交のみが「宗教的熱情」を引き起こし得るのだ……このような仮説を設定してみると、僕たちはそこからさらに大胆な視座を引き出すことが出来る。政治であれ経済であれ思想であれ文化であれ、マルクス主義者が「ブルジョワ的」と呼んだ諸制度の多くは、どれもこれも社交への「宗教的熱情」によって駆動していると見做し得るのである。

3 社交精神という宗教の教理

「ブルジョワ的」な諸制度が社交崇拝によって駆動していることを説明するために、ここではまず議会制民主主義と資本主義を取り上げたい。
「ブルジョワ的」政治システムとしての議会制民主主義。「ブルジョワ的」経済システムとしての資本主義。これらはどちらも、「人々が求めていることを出来るかぎり多く満たす」ことを目的としている。世界はさまざまな意味で有限であるため、「人々が求めていること」をすべて満たすことは出来ない。そこで議会制民主主義や資本主義には、「人々が求めていること(民意、需要など)」を出来るかぎり多く満たすための調整機構としての役割が与えられている。
 さて。調整機構としての議会制民主主義や資本主義には、ある共通する特徴がある。これらはどちらも、「人々が求めていること」は社交によってしか顕在化しない、と考えているのだ。
 議会制民主主義において人々(議員だけでなく有権者をも含む)は議論に励むことを推奨されている。徹底的な議論によってはじめて政治は民意を掴み取ることができる、というのが議会制民主主義を成り立たせている信条なのだ。
 同じく、資本主義において人々は取引に励むことを推奨されている。商品の適切な価格は前もって決定されているのではなく、徹底的な取引を通して一定の位置に落ち着く。人々にとっての商品の価値は、そうした徹底的な取引によってはじめて掴み取ることができる、というのが資本主義を成り立たせている信条なのだ。
 議会制民主主義における「議論」と資本主義における「取引」は全く異なる行動に見えるかもしれないが、僕はこの二者をともに「社交」というより広い概念の一環と見做す。社交において人々は、たとえ元々は意見の相違があったとしても最終的には妥協や合意に至るべきだ、とされている。ゆえに社交の一環としての議論は、中世のキリスト教社会にも見られたような護教論的議論とは異質なものである。護教論的議論においては神が社交よりも上位にあり、ゆえに議論による妥協や合意は決して許されない。一方、社交の一環としての議論においては社交が神よりも高い権威を持つ。だからこそ社交の一環としての議論においては、妥協や合意がむしろ推奨されるのだ。
「民の声は神の声」という言葉がある。キリスト教において「神の声」は教会や聖書などを通して開示された。一方、市民宗教としての社交精神において、「神の声」は社交を通して開示される。モーセの律法が神に由来しているように、近代的な法体系は社交に由来している。近代西洋人は、そのほぼ全員が「市民宗教としての社交精神」を信奉していたのだ。
 このような思想において、「正しさ」という概念はしばしば奇妙な歪曲を被る。社交崇拝においては、「正しい意見を持つ者」よりも、「自分の意見の正しさを疑う者」の方がより「正しい」と見做されるのだ――もちろん実際には疑わないことが誤りに繋がるとも限らないし、疑うことが正しさに繋がるとも限らないのだが。
 社交崇拝は外的な態度としては終わりなき対話を、内的な態度としては終わりなき苦悩を称揚する。ドストエフスキーに代表されるような近代の文学者たちが対話と苦悩を描き続けたのは、社交崇拝というイデオロギーの自覚的あるいは無自覚な反映である。こうした「終わりなき対話」や「終わりなき苦悩」への賛美は矛盾している。なんらかの問いにぶつかった時、社交崇拝の徒はその問いについて激しく対話し苦悩する。しかし彼らは、「問いの解決において対話や苦悩は有効なのか」という問いに関しては対話も苦悩も行わないのだ。
 彼らが賛美する「終わりなき対話」や「終わりなき苦悩」を問題解決の手段と捉えてはならない。むしろ対話や苦悩は、市民宗教としての社交精神における「祈り」の代替物なのである。問題解決の手段としての祈りが不純であるように、問題解決の手段としての対話や苦悩もまた不純である。伝統宗教においても社交崇拝においても、その熱心な信徒において「祈り」は自己目的と化しているのだ。しかし一方で伝統宗教も社交崇拝も、民衆を教化する際には「祈り」を問題解決の手段として説いている。「議会制民主主義や資本主義はより良き政治・より良き経済を生む」とリベラリストが主張するとき、僕はどうしてもその向こう側に鎮護国家めいた信仰を感じてしまう。

4 マルクス主義という堕天使

 ここまで僕は市民宗教としての社交精神、またの名を社交崇拝についてその内容を論じてきた。また僕は、こうした宗教的熱情が「ブルジョワ的」な諸制度を駆動させているのだ、とも主張してきた。第一章で述べたとおり、「ブルジョワ的」という蔑称は主にマルクス主義者によって多用されたものである。さて、なぜマルクス主義者たちは「ブルジョワ的」な諸制度が支配的だった時代において「ブルジョワ的」な諸制度を批判するようになったのだろうか。そしてなぜマルクス主義者たちは「ブルジョワ的」な諸制度にとって最大の敵と見做されるに至ったのだろうか。このことを考えるためには、社交崇拝の基礎となっている神学的前提を掴み取ることが必要となる。
 第三章で述べたとおり、議会制民主主義であれ資本主義であれ、社交崇拝に基づく諸制度は「人々が求めていること」を目的に据えている。社交の有効性を人々に説く時、社交崇拝の徒は社交を「人々が求めていること」を捉えるための手段として掲げるのだ。
 ここに社交崇拝と観念論が親和的である理由がある。社交崇拝の徒は、

  • 内面の平等……だれもが自分の内面を持っている

  • 内面の秘密……だれにも他人の内面は分からない

という二項目を神学的前提としているのだ。(なお、上記の二項目における「内面」の語を「投票」に置き換えるとこれはそのまま近代選挙の原則となる。)すべての人間には外面とは独立した内面があり、その内面を外面から把握することはできない。だからこそ人と人は互いの内面を理解し合うために、絶えず社交に励まなければならないのだ。……これが社交崇拝の根本教義である。
 マルクス主義者はこの根本教義に異を唱えた。彼らは、社交によらずとも科学によって人間の内面を理解することはできる、と主張したのだ。(なお「真のマルクス主義はそのようなものではない」という批判を僕は受け付けない。ここで僕はマルクス主義者の「理論上かくあるべきだった姿(ゾルレン)」ではなく「実践上かくあった姿(ザイン)」について論じているのだ。)マルクス主義はその社会主義性によってスキャンダルとなったのではない。マルクス主義はその唯物性と科学性によって、社交崇拝にとってのスキャンダルとなったのである。
 
前述したとおり、社交崇拝の徒にとって終わりなき社交(終わりなき対話、終わりなき苦悩、終わりなき議会主義、終わりなき資本主義……)は「祈り」の代替物である。しかしマルクス主義者はそうした「祈り」を経由せずに直接「人々が求めていること」を満たそうとした。だからこそ社交崇拝の徒は、そうしたマルクス主義者の態度を「傲慢」と捉えたのである。ちょうど前近代西洋のキリスト教徒が悪魔を「傲慢ゆえに堕落した天使」であると見做したように。
 マルクス主義者が堕天使として社交崇拝の共和国を追放されたように、ファシストもまた社交崇拝の徒から「傲慢ゆえに堕落した天使」であると見做された。マルクス主義者が主に「内面の秘密」を批判したのに対しファシストは主に「内面の平等」を批判した、という違いこそあるが、科学性を標榜するという点において両者は共通していた。その根本教義において、社交崇拝は唯物論とも科学主義とも相容れない。

むすびに

 ここまでの本文を読み返し、僕は改めて途方に暮れている。僕は自分の思考からどのような結論を導き出せばよいのか全く分からないのだ。
「ブルジョワ的」という形容詞と同様、「宗教的」という形容詞もまた現代においては蔑称として使用されることが多い。僕は議会主義や資本主義などといった「ブルジョワ的」な諸制度を「宗教的」であると論じた。ここまでの論を読んだ多くの読者が僕の論を議会主義や資本主義への批判として受け取ったとしても、僕は驚かない。
 しかし、「宗教的」という形容詞はなぜ蔑称として使用されているのだろうか。宗教的なものは相対的なものだ、という思想が、現代人にとって一般的なものとなっているからである。ある考え方が宗教的であるということは、その考え方が絶対的な正しさを持たないことを意味する。多くの現代人は、「宗教的」な物事についてそのような思想を持っているのだ。
 さて、そのような思想を生み出したのはまさに僕が本文で論じたところの社交崇拝である。「正しい意見を持つ者」よりも「自分の意見の正しさを疑う者」の方がより「正しい」、という社交崇拝の信条こそが、既存の諸宗教を相対的なものに変えたのである。
 今回僕は、「ブルジョワ的」な諸制度の根底に「宗教的なもの」を発見した。しかしそれによって「ブルジョワ的」な諸制度を相対化することは僕にはできない。「宗教的なものは相対的なものだ」という思想が「ブルジョワ的」な諸制度を前提としている以上、その前提に基づいて「ブルジョワ的」な諸制度を相対化することなど出来るはずがない。
 僕は「ブルジョワ的」な諸制度を批判したかったのだろうか、擁護したかったのだろうか。この論を構想した当初、僕は明らかに「市民宗教としての社交精神」を批判しようと志していた。僕は、巷に溢れかえる
「甲の主張が正しいか乙の主張が正しいか私には分からない。しかし、甲は乙よりも自分の正しさを疑っているように見える。よって私は甲を乙よりも正しいと判断する」
といった詭弁が我慢ならなかったのだ。
しかし考察を進めるにつれて、僕は自分がどこまでも「市民宗教としての社交精神」の枠内に収まっていることを自覚するようになっていった。まさに僕は社交崇拝の徒の一員でありながら社交崇拝の正しさを疑うことによって、逆説的に社交崇拝の正しさを示そうと試みていたのだ!
 他にも僕の論には重大な問題がある。こと近代においてたしかに資本主義は社交崇拝の影響下にあったと言えるだろう。しかし、現代の資本主義は果たして社交崇拝の影響下にあると言えるのだろうか? むしろ現代の資本主義はかつてのマルクス主義者と同程度に「傲慢」な思想――具体的には社会ダーウィニズムや能力主義など――の影響下にあるのではないか? そして僕はこの文章を書くにあたって、まさにそのような堕天使的思想から「ブルジョワ的」諸制度を奪還したいと無意識に願っていたのではないだろうか?
 ああ、「終わりなき苦悩」が始まってしまった。おそらく僕は、こうした内省を手段としてではなく目的として行える程度には、社交崇拝の徒として敬虔なのだろう。本文では不信心なふりをしていたが、この文章も結局は「社交」の一形態でしかなかったのだ。最後くらいは敬虔な信徒らしく、「祈り」の言葉を述べて筆を置きたい。社交精神よ永遠なれ、アーメン。

いいなと思ったら応援しよう!

黒井瓶
よろしければサポートお願いします! お金は記事で紹介するための書籍代として使います!