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オッペンハイマーを見た

この映画が話題になる前にロバート・オッペンハイマーという人間を知っている、と日本人で答えられる人の割合はどれくらいか、と聞かれると、僕はあまり自信がない。7割だったらかなり良い方じゃないかと思う。そしてトルーマンの名前を覚えている人はさらに少ないだろう。これはある意味、アメリカの日本における占領政策が非常に上手くいったことを示していると思う。
この映画は、原子力を最初に実用化した、理論物理学者でロスアラモス国立研究所でマンハッタン計画を成功に導いた、原爆の父ことロバート・オッペンハイマーの半生を描く。
この映画の感想は、ネタバレなしの部分とネタバレを考慮しない部分に分かれている。とはいえこの映画は、映画的なフィクションを挟んでいつつも内容自体は史実を元にしているため、彼の人生がどうなるか、というのはWikipediaの記事でも読めばどうなるかはわかってしまうため、ここでのネタバレというのはこの映画の展開についての言及を指す。史実を元にした物語は、それをどういう切り口で作品にするかという点が大事なので、この点はネタバレというカテゴリにする

最初に率直な感想を言うと、非常に素晴らしいし、多くの人に勧められる作品だと思った。

赤狩りについて

感想を話す前に、もしこの映画を見る前に読む人に行っておくと、映画を見る前にアメリカの赤狩りについては知っておくべきだと思う。
赤狩りとは、ソ連との対立構造が決定的になったあとにアメリカで行われた共産主義者を弾圧する運動だ。

こういう文章にしてしまうと、敵国のイデオロギーを信じるものを抑圧する姿を想像するが、実態はどうやら人道的な中世欧州の魔女狩りやナチスにおけるユダヤ弾圧、中国における文化大革命に近いものを感じる。
人を殺したりなどという人道的な問題は孕んでいなさそうだが、近親者が共産党だというだけでアカ認定されて地位や職を追われて人生を無駄にした人も多かったようだ。
この映画はアメリカ人が制作した映画なので、アメリカの歴史について、ここらへんは承前として扱われているイメージがあるので、そういう運動がかつてあったことを知ってから見たほうが、話がすっと入りやすいと思う。

アメリカから見た原子力爆弾

この映画の感想で「核爆弾が日本に落とされるシーンがない。全てが会議室や報告で完結している。その現実に目をそむけているようなのが不満だった」みたいなのを見かけた。実際、そのとおりだ。この映画の中で核爆弾の爆発はロスアラモスでの実験のシーンのみである。あとはそれがもたらした被害は数字でしか出てこない。
あらゆる決定や報道がただの数字と、自国の兵士が帰国できるという内容しか出てこない。
だが、僕はこれがアメリカ人から見た原爆投下という現実に対する認識なのだろうと思った。
降伏しない敵に対して、最後の一撃として落とした。降伏しない敵を降伏させて戦争を終わらせた、人道的な判断だった。これがアメリカにおける核投下の認識だ。
その上で、オッペンハイマーは作中で、何度かビジョンを幻視する。それは核が爆発し、陽の光もかくやという明かりがあたりを満たし、人間の皮が焼けて蒸発して、炭化した死体が転がる。誰もその現実を人道的な感覚で受け止めない中、作り手であったオッペンハイマーは冷酷なまでに正確にその様相を想像してしまう。
それが彼を苛むし、同時に周りの人間との温度差に心が侵され、その後の彼の行動に繋がっていく。
描いてない意図は明らかだ。それはアメリカの無知がそのまま描かれたのではなく、アメリカの無知という背景に、彼の苦しみを描くのが目的だった。

ここからネタバレありになる

展開の妙

この作品は、赤狩りの中でロバート・オッペンハイマーが公職追放に至る聴聞会のシーンを下に進行する。
本作の最も驚くべきところは上映時間3時間もあるのにダレていない、むしろせわしなく展開がぽんぽんと進むのだが、しかし疲れないところだ。
それは聴聞会に戻って過去に戻ってのテンポがあるのもいいし、過去のことが重要なシーンで、その間のシーンをすっ飛ばすことによってテンポ感を保っている。
ある意味、編集の暴力といっていい。それも映画監督らしい編集の暴力だ。VFXや無意味な長回しなどが多い昨今の映画で、映画らしい編集力で作品を魅せる作り方はなかなか見えない。さすがの一言。
また、どうしても科学的でありながら不思議で、細かく話しても意味が薄いので抽象的なことになるしかないシーンはイメージ映像と爆音でダレさせないようにしていた。ここはなんていうか、かなり無理矢理だが、彼の人生を描くうえでは切り落とせなかったから、強行突破したのだろう。
ここらへんは、シン・仮面ライダー、シン・ウルトラマンみたいな内容を詰めて爆速にしてしまってもったいない映画を見てきたことで、よりその敏腕ぶりが自分の中で浮き彫りになり、逆にここらへんの作品ももっとスマートにできたのかもなぁみたいな気持ちになってしまった。

トラウマの描き方のうまさ

また、個人的に今作で思ったのは、クリストファー・ノーランはトラウマの描き方が非常に上手いなということだった。
ノーランが聴聞会のシーンで時々顔を伏せる時に足を踏み鳴らす音が響き、声をかけられ気づくというシーンがある。なんだろうと思ったら、ロスアラモスで核投下の成功にあってスピーチを求められるシーンで「オッピー!」と彼を呼ぶ声が響いているシーンだった。
ここのシーンは核爆発のビジョンが来るが、その前に、人々の声が聞こえず、それ以外の物がぶつかる音のようなものだけ聞こえる、みたいな、思ってもないことを求められて話す、心が離れていき引き裂かれて現実感を失うような感覚、非常に迫力があった。準備を進めて中止になりそうだった実験を成功させたシーンよりも、いきなりのこのシーンに迫力をました演出にしているの、非常に上手な作りだった。なんとなく、元恋人の自殺を含めた、罪の意識の醸成を丁寧に描いたからこそ、どこか嫌な予感をはらみながら懸命に作って、その先に青天の霹靂の如く降って湧いたその罪悪感の苛烈さを上手く表現できてて唸ってしまった。
ノーランのトラウマシーンといえばINCEPTIONの中の電車の到来で揺れる線路と「私との約束を覚えている?」というセリフのリフレイン。そして会えない子供たちの、もう思い出せるかもおぼろげな顔。それが夢の中で繰り返し現れることで彼の罪悪感が通底するテーマとして示され、それを、アメリカの郷愁とクロスフェードさせて解消していくカタストロフが本作のメインシーンだが、その丁寧さがないのが、逆にその後に世界で起こる核拡散と抑止による絶滅を恐れ続ける日々の苦しさに繋がっていくようで、やはりその描かれ方のうまさを感じた。

描かないことで輪郭が浮かび上がる構図

オッペンハイマーでは核爆発は人の被害が出てないシーンでのみ出てくる。その後広島と長崎に落とされたあとも、数字と会議でのシーンでしか出てこない。会議のシーンで、おそらく人々が見ている先に被害の写真などが用意されているだろうが、オッペンハイマーはうつむいている。
このシーンを持ってオッペンハイマーが目をそらしているという人がいるが、大事なのは写していないことだ。
ノーランは意図して被害を写していない。被害を数字と、虐殺器官の中で表現するような、現実を覆い隠すような潔癖な言葉の中でしか語られないことで、アメリカという文化圏がその事実をどう需要しているのかが逆に浮き彫りになる。おそらくアメリカでは、その扱いこそが核投下に対する受容におけるノーマルだ。だが、見るとわかるがこの会議のシーンで被害を表に出さないのがあからさまに感じるのだ。全員が見てリアクションを取る中、オッペンハイマーはうつむき続けてる。その姿を移すことで、見ないこと(=逃げてること)に対する風刺のようなものを感じた。

アインシュタインとの会話で明らかになる主題

(※見てない人はここだけは読まない方が良い)
ロスアラモスを離れたあと、オッペンハイマーは水爆や核反対の立ち位置について色々話すようになった。その中で、あることで原子力委員会のストローズに恨みを買い、その恨みと政府の、科学者の間で反核開発の態度になると困る実情が絡み合って謀略を謀られる。
いよいよ冒頭から続く聴聞会と、ストローズの執念がもたらした事件の決着が描かれるのが、ロスアラモス以降の展開だが、非常に上手いのが、ここでストローズがオッペンハイマーに対して疑念を描くきっかけになった事件についてが描かれる。
この事件自体は、冒頭にすでに描かれている。アインシュタインが高等研の池で遊んでいるところにオッペンハイマーが近づき、何事か話し始める。それを見たストローズが二人に近づく。ストローズが合流する前にアインシュタインは暗い顔で高等研の建物に引き返していくところをストローズが話しかけるが、彼はすべてを無視して歩き続ける。ストローズが「一体何を話したんです?あんな態度を取るなんて?」と聞くが、オッペンハイマーは何も答えない。
ストローズが執念を燃やし始める切っ掛けになったこの事件がこの聴聞会などの事件に大きく関わっていると描かれ、ストローズが描くオッペンハイマーの「英雄になり続けたいだけの男」という幻想が膨張しきったところで「そうじゃないかもしれない。もしかしたら、別のことを話していたのかもしれない」といって、そこで初めて二人が何を話していたか明かされる。
核反応をすると、大気中の中性子もすべて連鎖反応して地球が火の海になるという恐ろしい予測(ただし計算違いで外れだった)をアインシュタインに共有した時のことを話し、実際にそうなってしまったと語る。もちろん現実でそんなことはおこっていない。しかし核分裂爆弾を作ったことにより、そのあとの軍拡が始まり、人類はあまりにカジュアルに自らを絶滅させるに至る兵器を生み出してしまったことを示唆している。アインシュタインはその前に彼の人生で経験した「栄光を得たものがその後どう利用されるか」という抽象的な話と彼の実体験が結びつき、彼の後悔と、アインシュタインの後悔に帰着する。あまりに映画として見事としか言えない展開だった。

ノーランは主題がある映画を描き切るのが上手いタイプだ。風呂敷をある程度広げたあと、たたみ切るのが上手い。TENETは逆の作風に挑戦し、あまり受けが良くなかった。
ノーラン自身は007の大ファンなのでそっちのほうが良かったのかもしれないが、この作風に戻ってくれたことが喜ばしい。
これからもその構成の巧さと演出とのマッチングで、魅せる映画を作ってほしいと思う。

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