〜言霊学から〜今(現象)世界で起きていること
序
言霊学は「心とは何か」と言う問いかけから始まる心の学問です。
心の中に、雲のように現れては形を変えて消えて行く心(思量=思考)の実態を、自問自答しながら現象界との符合する点を求め探っていきます。
自問自答のベースになるのは、仏教の「唯識」や
インド哲学(不二一元論)やヨーガの哲学などです。
私もまだ学びの途中なので、その時々で気づいたことを書き留めます。
間違うこともあろうかと思いますが、徒然と書き記して行きます。
一次情報とは?
最近、一次情報という言葉をよく耳にするようになってきました。これが重要なテーマであるという認識が広まってきた様です。なので、初回は心を扱うため必須となる「認識と意識」の観点から「一次情報」「二次情報」の主題を読み解くことにします。
・一次情報は、どこにある?
一次情報は、心がモノコトを『認識』しはじめた場所、にあります。場所ではありませんが、説明のしようがないので、一応場所ということにしておきます。
…と、いうことは?
>>>認識のはじめという場所は、言語化の前──つまり非言語の領域。
「あ、鳥だ」と思う時、そこにはもう言語があります。でも鳥を見た瞬間には未だ言葉がありません。言葉は、記憶の中からやってきます。鳥という言葉を知らなければ、何やら飛んでいる何かということになります(←と、いう表現も言葉でやってますがね)
それを突っ込んで考えてみるとです…
鳥が飛んでいる空間:空と鳥の色:空気:光などの情報は、五感によって取り入れられたものです。五感>聴覚:触覚:視覚:味覚:臭覚が対応する、空間:空気:光:味:匂い〜仏教では「地:水:火:風:空」五大と云います〜
では、五感からの入力が一次情報でしょうか???否、です。
人間が外界を見るとき、目のレンズを通した画像は上下逆さまに映るはずですが私たちはちゃんと上は上、下は下に見ます。本当の画像を脳の中で作り変えて見ているのです。赤ちゃんはこの機能が未発達なので、上にあるものを取ろうとして下に手を伸ばすそうです。ということは、我々みんな、脳の作り出した二次情報の中で暮らしているということになります。
脳の中の住人である私たちが、認識のはじめ(一時情報)にたどり着くには相当な努力が必要…とわかるのではないでしょうか?
>>>これらの詳細は、ヨーガ哲学に語られています。
なので、認識が言語化されている──つまり現象世界:現象界:外の世界に出てきたものは全て二次情報ということになります。
・認識のはじめ、非言語の領域とは
認識のはじめを説明することはできません。
それは言語を超えた領域だから。
何かしらの比喩、置き換えで表現するしかありません。
認識のはじめを置き換えて表現するのに、
形霊(かたたま=カタチ)
色霊(いろたま=イロ)
音霊(おとたま=オト)
数霊(かずたま=カズ)
という種類があるのではないかと思います。
言霊が入っていないですね。それについては説明があります。が、それはまた後で。
色霊と音霊は、〜〜〜〜波
形霊と数霊は、・・・・粒子
波と粒子。
量子力学みたいですよね。
認識することによって、切れ目のない波〜全てが繋がっていてどこにも切れ目のない宇宙が『認識』という分断で「粒子」になる。分かれるわけです。分かれるから「わかる」日本語の表現はすごいですね。。。
粒子-ツブ、すなわち玉-タマ、これが『コトタマ〜言霊〜』心を構成する最小単位『ヒ』=霊です。
余談ですけど、上記の言霊以外の4つは、言霊を知らないと説明しにくいなぁ〜…というのを経験則によってわかったような気がします>故・島田先生がおっしゃってたことですが…言霊を知っていると、理解がしやすいけど、知らないと理解しにくいって感じでしょうか。
で。
認識の始まりの時には(つまり認識の前)まだ主体と客体は別れておらずの『全一』状態、これを日本書紀では「古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。」と表し、神名『可美葦牙彦舅尊』古事記では『宇摩志阿斯訶備比古遅神』と比喩しました。
天地も陰陽も主客も分かれていない、その状態。
これが、認識のはじめにある。
~人間は一瞬一瞬、心のこの状態を経て世界を見ている~
言葉にしようもなく、ただ『全一』
そこで「はっっっ」と意識が気づく、すると主体と客体、私と世界が分かれて認識可能な状態ができる。それを第一次情報と呼ぶ。
主体を言霊ア(あれ「吾」~内在世界)
客体を言霊ワ(われ「我」現象世界)
認識の前は『全一』で「わからない」~分かれていないので分からない~
全てが均衡している『全一』>どこにも偏りがない、仏教では「平等正智」といったりします。それを知るのが悟り。中国に『天眼』という言葉もあります。
ここに、均衡が破れることによって、主体と客体が分かれ、認識後の世界となり
私たちが普段使っている意識の世界になる。。。。
で、最初の一歩の全一から意識が目を覚まして
世界を初めて目にした時が本当の一次情報
ラマナ翁の話では、アートマー(の光)によって自我:他(感覚器官だったかな)が反射して輝くそう。アートマー(意識)の光がなければ、何も輝かない。
全てはアートマー(意識)によって、顕現する。という。
つまり、普通の人が一次情報と言ってるのは一次情報では無いということを説明したい。けど、うまく説明できない。本当の一次情報とは、凡夫が触れられるものではないのです。それをもっと簡単に言うなら、私たちが使っている日常の情報全てが、何処かの誰かの頭の中を通して出た二次情報で、純粋な情報ではなく、それを扱う限り一次情報とは言えないということです(→スピリチュアルな視点からのお話ですが)
そして、言霊ア・ワに分かれた後、主体と客体を行き交う言霊「イ〜ヰ」によって、初めて現象世界が生まれてきますが、これら全ては、イノチという土台によって可能になるので、言霊『イ』が、全ての現象の背後にあると日本書紀に説かれていることで、これがイの道〜イノチ〜命の正体である…という。これを言霊学という学問で復活させたのが、先人の山腰先生、小笠原先生、島田先生でありました。それは、意識の構造についての知識です。内観によって、心の中に確かめられた知識です。その知識は、運用された時に知恵となり、生活の中に生きて活きて行き渡っていくことがイノチです。
さて、言霊には「オ」の次元、記憶とか概念の次元があります。
・言霊『オ』
>>>現実面での説明では、言霊「オ」は学問・法律・(文章・記述)サンスクリット語では(多分)「スムルティ」…( ̄▽ ̄)間違ってたらごめん。
私たちが使う言語は全て、概念化されたコトバです。それそのものを指す言葉がありません。全てが二次情報だから概念です。概念は記憶から生まれ、記憶は経験です。
経験則は過去。なので、今では無い。
日常の言葉で一次情報と言っているのは、実は記憶の中の誰かの言った言葉の受け売りや信じ込みであって、本当の一次情報では無い。言葉というものはあらゆる概念がそこに付着したかなり汚い(キタナイ気足ない~「古事記」で、黄泉国に行ったイザナギが「かのきたなきくに」と言ったのは、概念世界の汚れた言葉のことを指す)──普段使ってる言葉を汚いと言われても困りますよね〜( ̄▽ ̄)
それは、その人の中に、すでに「きたない」が良くないものネガティブなものというインプット(概念、記憶)があるからで、ここから対話を始めると、話はどこまで行っても平行線です。
その根本の、純粋な「きの足りないもの」で理解できれば、了解できます。
(→気の足りないとはどういうことかは、別稿であらためます)
人は、人が記憶を持つ限り、二次情報からしか出発できません。
そのことを了承したところから、本当の一次情報に向かうことができ、
本当のリアリティ、真実にたどり着くことができます。
世間的に言う「真実」とは一時情報ではあり得ません。
私たちは、言葉を使う限りにおいて、相手と洗脳しあってると言えます>>>記憶概念(経験で信じ込んだ言葉)で洗脳する
そのことを知らずして、真実が何かとか、マスコミが真実を言っていない、というのは的外れ。
この世界の流れには、ストーリー(信じ込み=概念)があって、その通りに進行しているだけです。その概念の、認識を作り出しているその人そのものの記憶の底を
洗いざらいしてみるとわかってきます。
いかに現代人が現象世界に惑わされているかがわかろうというもの。
心の世界の深淵に触れなければ、この世界を正すこともできません。
現象は二次的です。その奥にある心を知り、さらにその心を構成するものを理解することが、コトタマノマナビ、です。
故・島田先生に尊敬を捧げつつ
つづく