物事を人のせいにするのは、縛りプレイするようなものかも

縛りプレイってあれです。
テレビゲームで、わざと制限を設けて自分で難易度を上げる遊び方。
ポケモンでレベル5のポケモンだけでチャンピオン倒すみたいな。

何かを人や環境のせいにしてしまうのは、そういう縛りプレイをするみたいなものかなとふと思ったので、メモ。

よく聞く話かもしれませんが、
人生には、「自分でコントロールできるもの」と「自分でコントロールができないもの」の2つが存在する。
人生がうまくいくコツは、「コントロールできないもの」をどうにかするのではなく、「コントロールできるもの」を変えていくこと
だと言います。

具体的なイメージ↓

コントロールできるもの(Aとする)
→自分の機嫌、心持ち、スケジュール、習慣、取り入れるもの、未来 等

コントロールできないもの(Bとする)
→他人の心・受け取り方・感情、天候等の外部環境、自分の生まれ、過去 等

※個人的な定義

何か好ましくない、自分の本意でないこと(問題X)が起きた時に
ついつい、「天気が悪かったから」「忙しかったから」「あの人が〜」とか言ってしまいますが、
その責任を押し付けた先って、上記のBに該当することが多いのではないでしょうか。

(※ここで、「いや、この世の全ての不利益は「私」の努力不足と考えているッ…」っていう『覚悟』が決まっている猛者は、以降の文はスルーしてください…尊敬します…!)

責任の所在をBにすると何がまずいのか。
それは、起きた問題Xも自動的にB、つまり「コントロールできないもの」に分類されてしまうことです。

自分でどうにも出来ないものが原因で起きた問題は、そりゃ自分でどうにもできませんよね。

それを繰り返しているとどうなるか。
人生におけるBの要素が増加します。

もし人生うまくいかせてえなと思った場合は、上述したとおり
「Bをどうこうするのでなく、Aを変えていくこと」
が大切になります。

「よし、じゃあBはムシして、Aを変えることにフォーカスすっぞ!!」
と思っても、Bの要素ばかりでAの要素が少ない。
「なんだよ、人生B要素ばっかじゃねえか!!全然思い通りにできねえ!」
という感じに、人生そのものがBになってくる。

え、ツラ。
何がよくなかったのか。
お分かりの通り、問題Xの原因をAであるとしておけばよかったのではと思います。

そうすれば、問題Xは自分でコントロールができるもの、A要素になります。人生におけるA要素が増えます。
変えていける要素にフォーカスしやすくなります。

問題を人や環境のせいにすることは、人生のB要素を増やしてどんどん自分を不自由にするのと同じなのではないでしょうか。

でもそれって誰に頼まれたり、強いられたわけではないはずです。
なのに、わざわざ人生を不自由に、制限を加えるって
手持ちポケモンのレベル上限を5に縛っているのと似ているのでは

レベル80でも100でも、好きに使って戦えばいいのに、
四苦八苦しながらどうにか活路を見出してもがいてる。(最後は運ゲーになりますよね、低レベル縛りって…)

縛った覚えないぞ!と思う方は、
もしかしたら縛りプレイをするのがもはや習慣になってしまってたり、
周囲が縛りプレイしてるから、それが当たり前になってしまっているのではないかなと思います。
なんなら縛りプレイしていない人を見て、なんだかズルいと感じてしまったりすることもあるのでは…?

私もかなりこの縛りプレイをデフォルトでやっていた気がします。
縛りプレイが楽しいという猛者のことは、すごいと思いますが、私は楽してゲームクリアしたいタイプです。
皆様はどうでしょうか…?

縛りプレイを止めるためにも、
人生におけるA要素を増やす、これを意識して生活したいなと思いました。

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