「じゃがいも」のお寺話45 桓武天皇
桓武天皇(737年〜806年)が若い頃は聖武天皇〜孝謙天皇の時代でした。国分寺を作ったり、大仏を作ったりした頃です。
桓武天皇は天皇の血を受け継いではいますが44代〜48代までの天皇は自分とは違う天武天皇の血筋が天皇を継承していること、母親の身分が低いことなどの条件で、自分は天皇にはなれないと納得した青年期を過ごしたようです。
天皇を補佐する官僚を目指して、政治、仏教を学び、実際に官僚として出世が見込まれていて「大学頭」という官職についています。
770年に称徳天皇(孝謙天皇)が崩御しました。称徳天皇は独身で子供がなく継承者が決まっていませんでした。白壁王(光仁天皇)は天智天皇の孫ですが、天武天皇の血を引く聖武天皇の娘の井上内親王と結婚していて間に他戸親王がいます。天武天皇の血を引く男子として次世代の天皇候補になります。
他戸親王を次の天皇として引き継ぐために父である白壁王が49代光仁天皇に即位することになり他戸親王が皇太子となります。山部王(桓武天皇)は光仁天皇の側室の子なので天皇になる対象からは外されていました。このような事情で天皇になった光仁天皇は史上一番高齢の62歳での即位です。
このままであれば山部王が桓武天皇になることはなかったのですが、当時の権力者の藤原氏の政治的意向というか陰謀でしょうか。772年、他戸親王と母の井上内親王は光仁天皇を呪った(呪詛)として皇太子と皇后の権利が剥奪され奈良の五條辺りに閉じ込められて(幽閉)しまいます。幽閉の地で775年に2人とも急死したと伝わります。暗殺説もあるようです。このような騒動の中で山部王(桓武天皇)は皇太子に任命されることになります。藤原氏は山部王(桓武天皇)を次の天皇にしかたったようです。
他戸親王の死後、天変地異が相次ぎました。他戸親王の呪い、他戸親王の怨霊が光仁天皇と桓武天皇を悩ませることになっていきます。
奈良時代末期、様々な陰謀が混じり合った王位継承のゴタゴタの中で期せずして桓武天皇が即位することになります。
桓武天皇は血筋からも天皇即位の経緯からも、天武天皇や聖武天皇などが築いてきた奈良時代の政治体制や、いわゆる「国家仏教」の体制を敬い、守り、継承するような気持ちを強く持ってはいないでしょう。既存組織に対する遠慮や忖度が少ないので「京都への遷都」や「奈良仏教からの離脱」の判断ができたのだと思います。
加えて、官僚としてのスキルがあるので客観的な政治判断ができたのかも知れません。
桓武天皇が作った平安の時代。仏教界は大きな変化をすることになります。