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「じゃがいも」のお寺話55 西本願寺と東本願寺(1/3)

西本願寺と東本願寺は、西本願寺派なのか東本願寺派なのかという違いはあっても同じ浄土真宗と感じています。西でも東でも本願寺というお寺名称から来るイメージの錯覚なのでしょうか。
西本願寺は「浄土真宗本願寺派」の本山、東本願寺は「真宗大谷派」の本山とされます。他の宗派とはちょっと違うように思います。真宗と浄土真宗は違うのでしょうか。
今の浄土真宗は16派とも10派とも言われますが浄土真宗の門徒数の49.093%が浄土真宗本願寺派、48.296%が真宗大谷派で、残り約3%の門徒を14の派で分けているようです。浄土真宗は「浄土真宗本願寺派」と「真宗大谷派」の2つの派で成り立っていて人数もほとんど同じと言ってもよい状況のようです。

親鸞聖人(1173年〜1263年)から始まる浄土真宗は中興の祖と言われる蓮如上人(1415年〜1499年)の時代に爆発的に信者を増やしてます。
蓮如上人の前には浄土真宗にも複数の派があったりしたようですが蓮如上人以降は本願寺派一つに統一されたような状況になりました。
非常に大きな組織になったので大名や他の宗派の僧侶からの妬みを受け、寺を焼かれるなどの被害というか攻撃ともいうべき状況に遭うことになります。
京都を離れ福井県の吉崎に移っても同じような災難に合い、京都の隣の山科に移ったときは、土塁を持つ城のような巨大敷地のお寺を作り、それでも山科も襲われて、たどり着いた場所が石山本願寺だったようです。
場所を移る度に土塁や堀や広げ壁を高くし、より強固な街を作っていくことになったため最終的に難攻不落の石山本願寺ができあがった。造らざるを得なかったということなのでしょう。石山本願寺は今の大阪城の辺りにありました。今は大阪城の中に石碑が残るのみで現存していません。和睦して移転したのですから西本願寺が元は石山本願寺だったとは言えそうですが。

石山本願寺では織田信長と10年間も戦った石山合戦(1570年〜1580年)があったのは前述の通りです。

戦国時代の本願寺は日本各地に門徒をもち、繋がりが深い大名もいたため、石山合戦が始まり石山本願寺を敵にした織田信長の周囲は一気に敵だらけになりました。
織田信長は石山本願寺とは一旦休戦を宣言して本願寺と繋がりの深い浅井朝倉や一向一揆の鎮圧を進めます。
比叡山焼き討ち(1571年)は、本願寺との関係が深い浅井朝倉を先に討伐して石山本願寺を攻め易くするためでもあったようです。元々比叡山と織田信長には所領問題での確執もあり、浅井朝倉をかくまっている比叡山に対して浅井朝倉への協力を止めるように申し入れても比叡山は一切応じませんでした。結果として焼き討ちが行われることになります。比叡山を壊滅的状況になるまで焼き討ちし、多くの僧侶の首を跳ねたとされます。
いくら織田信長でも神聖な比叡山を攻めては来ないだろうと考えていたとも言われます。

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