4人の日本の作家について『太宰治』、『大岡昇平』、『深沢七郎』、『芥川龍之介』①『太宰治』と『大岡昇平』について
今回はQuoraの過去回答で、4人の日本人作家についての回答を紹介しようと思います。
1.太宰治
質問『もし太宰治が今の時代に生きていたとしたら、その私生活のせいで彼の作品のほとんどは文学としての評価を得ることは難しかったのではないでしょうか?』
太宰治『女生徒』
太宰治さんは、デビュー当時から「私生活」が問題視されていたようです。
同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう。
1935年 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)
芥川賞選考委員であった佐藤春夫は選評で、
「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」
同じく選考委員である川端康成からは、
「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。
太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。
1936年 第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤春夫宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出す。
井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会柴病院に10日間入院した。
第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。
第3回芥川賞に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。
1937年6月21日 処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。
同年7月11日 上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う。
川端康成に献本と選考懇願の手紙を送っている。
第3回芥川賞では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。
要するに私生活の乱れ(主に薬物依存が問題視され、芥川賞を受賞できなかった)
当時の太宰が問題視されたのは主に薬物依存。
作家としての評価が固定したのは、その後パビナール依存から離脱し、精神的に安定してから。
1939年9月1日 東京都北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、
『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表。
『女生徒』は川端康成が
「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞。
この時期、太宰への原稿の依頼が急増した。
『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴え』『走れメロス』が収録されています。
この作家として脂が乗っていた頃の作品群は、いわゆる「私小説」と言えるような作品は少ない。
「人間失格」という作品のイメージ=「太宰治」のイメージという風潮があります。
〜『人間失格』執筆、出版前後。
1948年3月より『人間失格』を書き始め、5月12日に脱稿した。
太宰は、その1か月後の6月13日に山崎富栄とともに玉川上水で入水自殺した。
同年、雑誌『展望』6月号から8月号まで3回にわたって掲載された本作品は、著者死亡の翌月の7月25日、筑摩書房より短編「グッド・バイ」と併せて刊行された。定価は130円。
✳︎
こういう背景もあって『人間失格』は太宰治自身の生涯と私生活を赤裸々に告白した「自伝」であり「遺書」という読まれ方が長くされてきた。
しかし、ほぼ遺作と呼んでいい「人間失格」が太宰の「遺書」という見方は最近否定的になってきているようです。
連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられてきた。
実際、本作のあとに『グッド・バイ』を書いているものの未完であり、完結作としては『人間失格』が最後である。
体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説とも考えられている。
しかしながら、太宰の死により、その真偽については不明な部分が多い。
このように「遺書」と受け止められていた本作は、勢いにまかせて書かれたものと長く信じられてきた。この定説を覆す転機となったのは、
1998年5月23日 遺族が発見したB5版200字詰めで157枚におよぶ『人間失格』の草稿を公開したことである。(『新潮』1998年7月号に原文資料掲載)
これらの草稿では言葉ひとつひとつが何度も推敲されており、内容を練りに練りフィクションとして創造した苦労の跡が随所に伺える。
〜補足〜
太宰はデビュー以来作品の主人公と太宰本人が同一視されることを嫌い、
「女性独白体」
という女性目線での文体で書くことが多かった。
しかし「人間失格」は久々に主人公である男性の独白形式で書かれた作品でもあった。
2.大岡昇平
質問『マウンティングがスゴい作家といえば誰ですか?』
大岡昇平『野火』
本人は『マウンティング』しているつもりはなかったと思います。
何回か映画化されている、『野火』の原作者、大岡昇平。
映画『野火』予告編 2015年 塚本晋也監督
映画『野火』2015年版 監督 塚本晋也 出演 塚本晋也、森優作、リリー・フランキー
この『野火』は、大岡昇平自身のフィリピンでの戦争体験に基づいて書かれた戦争文学の代表作。
その他、
『俘虜記』、『レイテ戦記』など、戦争文学で知られる作者。
『武蔵野夫人』に影響が見られるように、本来フランス文学の研究家でもあり、
『事件』は少年の起こした殺人事件の裁判を中心に描くサスペンス。また作者は推理小説の愛好家でもある。
映画『事件』予告編 1978年 野村芳太郎監督
映画『事件』 1978年公開 監督 野村芳太郎 出演 丹波哲郎、大竹しのぶ、永島敏行、渡瀬恒彦、松坂慶子
前置きが長くなりましたが、大岡さんは
『ケンカ大岡』と呼ばれるほどの文壇有数の論争家でした。
『ケンカ大岡』の論争(の一部)
1.井上靖『蒼き狼』を史実に反すると批判
2.海音寺潮五郎『悪人列伝』を批判。海音寺と雑誌で論争。
3.松本清張『日本の黒い霧』を批判。
4.中原中也の評価について、篠原一士と論争。
5.江藤淳『漱石とアーサー王伝説』を批判。
6.森鴎外の『堺事件』をめぐって、国文学者尾形仂と論争。
主に史実をめぐっての批判が多い。
また上にあげた『武蔵野夫人』は大岡昇平が1950年に発表した恋愛小説だけど、フランス文学の名作『ボヴァリー夫人』に倣った官能的な描写を含む内容でベストセラーとなった。
1980年代に、ポルノ小説に『武蔵野夫人』の題が使われたため抗議したこともあります。
その他にも、
1957年 宝塚舞台『赤と黒』の脚本を書いた際、演出家の菊田一夫と対立。舞台初演を欠席。
1964年 『ハムレット』で、主演の仲代達矢を『未熟』と痛烈批判。
1971年 『レイテ戦記』での野間文芸賞辞退。選考委員の舟橋聖一との軋轢による。
1972年 日本芸術院会員に選ばれるが辞退。「捕虜になった過去があるから」と。
1974年 『中原中也』で野間文芸賞を今度は受賞。選考委員の舟橋は最後まで難癖をつけた。
個人的には、「おそらく現代に生きていたら、SNSなどで多くの炎上を起こしていたのではないか?」と思います。
主に史実に関して厳しく、好奇心旺盛な性格。
晩年である1980年より『成城だより』という日記文学(エッセイ)を6年間連載。(当時70歳台)
その内容としては、文学・文芸にとどまらず、漫画、映画、洋楽、ニューミュージックにも言及。
・数学とコンピューターを学ぶ。
・漫画は「萩尾望都」、「高野文子」、「じゃりん子チエ」など。
・ロックは「ザ・クラッシュ」、「ドアーズ」、「ジミ・ヘンドリックス」、「村八分」
・ポップス「中島みゆき」、「アバ」、「シーナ・イーストン」
・映画『地獄の黙示録』のロケ地は自身にもゆかりのあるフィリピンがロケ地であることから言及。
・YMOの「坂本龍一」が昔大岡の編集担当だった「坂本一亀」の息子だと後年知って驚いたエピソード。
などなど。
はっきり言って当時の若者よりずっと守備範囲が広い。
また大岡昇平といえば、自身の不倫、愛人体験をもとにした『花影』などもあるが、長くなってしまうので割愛。
映画『野火』Fires on The Plain.1959年 監督 市川崑
映画『野火』1959年版 監督 市川崑 出演 船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修現在Youtubeで1959年公開の市川崑監督版『野火』が全編公開中。
1988年12月25日 脳梗塞のため死去。
またQuoraに投稿したこの元記事に、QuoraユーザーのTakashi Aotaさんがコメントをしてくれました。
〜Takashi Aotaさんのコメント〜
「音楽好きな大岡は晩年、モーツァルト大好き人間となって50歳過ぎてからピアノや和声法のレッスンに通い、モーツァルティアンとなっていろいろエッセイなどに古典音楽の話も書かれています。まあモーツァルト狂いのスタンダール研究者なので当然の成り行きでしょうが。」
『芥川龍之介』と『深沢七郎』については次回、投稿しようと思います。