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ユングの警告――我々はいまだ、羊ではないのか

時に数は、個を無力なものにさせ得る

 随分前から、数を殊更に強調する物事の見方・捉え方を警戒してきました。

 これは、必要な場合があるものの、いたるところに侵蝕すると、個の存在が卑しいものになり、人に無力さを覚えさせる要因ともなりかねません。

 例えば、宗教の力がどれだけあるかを語るのに、しばしば信者数に焦点が当てられてきました。

 キリスト教とて、例外ではありません。

 しかし、キリスト教に限っても、本当に経典が焦点を当てているのは、数ではなく、個の働きであることは、丁寧に歴史を紐解けばわかることです。

 集団は方向づけられれば、社会を良い方向に変えるうねりとなる一方、誤った方向に誘導されれば、破壊的な力ともなり得、そして、そうなると、容易に止められないことは、歴史が何度も証明しています。

 あまりに数や集団の力を強調するのは、人から生きる力を徐々に削いでいく危うさがあります。

ユングの警告

 人間が自分の卑小さと無益さに耐えられない気持になって人生の意味をなくしてしまうのは、国家の奴隷になる第一歩だと、20世紀の心理療法家にして、優れた医師であり、牧師の息子であったユングは、『現在と未来』で指摘しています。

“集団が大きくなるにつれて、それだけ一人一人の人間は"卑しい"存在になる。ところが人間が、自分の卑小さと無益さに耐えられない気持になって人生の意味をなくしてしまうと(中略)、すでにそれは国家の奴隷になる第一歩であり、人はしらずしらずのうちにその道の開拓者となっているのである。外側ばかりを見て、数の大きさしか目に入らない人は、自分の感覚がもたらす物証や自分自身の理性に対して、おのれを守るすべを持たない。現在、世界じゅうがやっているのはまさにこのことである。人は統計的な真理や数字の大きさに魅せられ、圧倒されて、巨大組織には演じることも取って代ることもできない個人の人格というものが、いかに無力でつまらぬものかと、日に日に思いこまされている。”(ユング『現在と未来』平凡社ライブラリー、1996、p,198)

 数で人間を語ることに私が非常に警戒しているのはこのような理由です。

 加えて、ユングは繰り返し、個として道徳的知的に立派でも、集団になると、個人の時よりも道徳的・知的に劣化することを指摘しています。

“現代という時代は浅はかにも、数の大きさや組織の大きさでものを考えることしか知らない。しかも規律のよくいき渡った群集が、一人の狂った人間の手に落ちたらどういうことになるかは、世界中の人間が見すぎるほど見たではないか。そう思いたいものである。ところが残念にも、この洞察がこれまでのところまるで浸透していないのは、危いことと言わざるをえない。人びとはいまだに喜々として、集団行動こそが救いをもたらすという信仰のもとに結集し、組織を果てしもなく強大にするには、それだけ多く道徳性を犠牲にせずにはできないということにはこれっぱかりも気づかない。” (p,234)

 実際、「個として道徳的知的に立派でも、集団になると、個人の時よりも道徳的・知的に劣化する」というユングの指摘を、自分の教会で目の当たりにしたものです。

 ゆえに、個としてどれだけ立派であっても、ある人の集団との距離感を、人を見定める際の、一つの基準として採用しています。

 集団への埋没度合いが強すぎれば、警戒する、ということです。

 所属教会での経験から、内面にしっかりと定着していない「信仰」など、手綱のついていない獣性の前には全く何の役にも立たないことを思い知りました。

 ユングの同時代人であるシュタイナーが『いかにして超感覚的世界を認識するか』の冒頭で、こんな意味のことを述べています。

 外面的に立派な行為をしても何にもならない、自分の内的な意志として、良き行為をしようとしていくことが大事だ、と。

 昨日の記事とも一部重なることですが、普段、人として真っ当にやるべきことをやっている人は、非常時においても、その矩を踏み越えません。

 しかし、外面的に、例えば牧師やリーダーに恭順で「謙虚」な姿勢を取るが、内面が荒廃したままの人間は、日常を超えた領域では、簡単に、人の本分を踏み越えます。

 あるいは、依存心理で生きている人々は、非常時には、自分の責任や問題をどこかに打ち捨てて、「お前たちを救ってやる」と称するサイコパスに容易くなびきます。

 今も、様々なインフルエンサー、特に「やるやる詐欺」をしている方々に群がる人々がいますが、ユングの時代から全く人類は進歩していないことがわかります。

組織された集団に抵抗できるのは、組織された個だけ

 さて、ユングは、組織された集団に抵抗できるのは、個性においてよく組織された者だけだと指摘します。

“数の大きさ、すなわち集団は、そしてその圧倒的な力は、日々に新聞を通じて、あれやこれやの形でわれわれの眼前につきつけられている。それとともに個々の人間の価値のなさは、いやというほど思い知らされるから、どこかで、どのようにかして存在を認められたいという希望も消えてなくなるほかはない。使い古されて陳腐になった理想の文句、自由、平等、博愛も、個人には何の助けにもならない。このアピールを呼びかけるべき当の相手が、集団の代表者という個人に対する死刑執行人なのだから。
 組織された集団に抵抗できるのは、おのれの個性において集団と同じようによく組織されている者にかぎる。” (p.238-239)

 つまり、誰かに依存し、自分の問題や不安から逃避する人間ではなく、自立して、自分の意志で生き、他者と協同した関係を結べる人、ということです。

 個こそが責任を担える存在であり、何かを変えるにはまず個が変わる以外にない、個の内にある抑圧された影を見つめることなしに、社会の歪みを正す術はないと、ユングは繰り返すのです。

 ユングの同時代人で、同国人の画家パウル・クレーは、ナチスによって退廃芸術とされ、作品を奪われてしまう。

 だが、彼は沈黙の内に、絵を描き続けた。

 個を蹂躙する力への烈しい否を内に燃やしながら。

 『現在と未来』におけるユングの多くの指摘は、今も当てはまります。

 彼としては、この自分の指摘が外れ、人間が内面的にもっと成熟してくれることを願っていたことでしょうが。

ユングと異なる方向からアプローチしたグルジェフ

 ユングとは異なるアプローチで、集団催眠や、数や国家の奴隷へと陥る人間の弱さを取り除こうと願ったのが、19世紀後半から20世紀前半にかけて生きたアルメニアの神秘家ギオルギィ・イワノヴィチ・グルジェフです。

 昨年の記事で、グルジェフの生涯は、「人々を催眠から目覚めさせ、機械を人間にすることに捧げられたと言って良いだろう」と述べました。

 ここで紹介した「魔術師のたとえ」という小話は、和尚がよく引用した話でもあり、人間の置かれた状況を極めて的確に描いています。

 デーヴィッド・アイクの『ムーンマトリックス1』(ヒカルランド)の巻頭詩でも引用されています。

 ひょっとして、私たちは今も、「人間だと思い込まされている羊」なのかもしれません。

 1921年にグルジェフに出会って以来、コンスタンチノープルからフランスに至るまで行動を共にし、28年間にわたってグルジェフとの直接的な関わり合いを続けたチェスラヴ・チェコヴィッチが回想録を記しています。

 これは、現在、Kindleで翻訳が読めます。

 チェコヴィッチが記しているグルジェフの言葉を紹介して、この記事を終えよう。

“自分は自分のなかに囚われていることを自覚した者だけが、自由になりうる。そのためには、抜け出すことを本気で望み、賢明なやりかたで準備する必要がある。人は注意深く考えをめぐらせ、牢獄に囚われているのは何者なのか、この牢獄は何でできているのかを探らなければならない。” (チェコヴィッチ『グルジェフ氏の思い出 第一編』)

 「牢獄に囚われているのは何者なのか、この牢獄は何でできているのか」、この問いは、今も、折々に、目を向けるべきもののように思われます。

オススメのグルジェフ入門

 もしグルジェフについて何か、読みたいと思われるなら、小森健太朗氏の『グルジェフの残影』(文春文庫)という小説をオススメします。Kindleでも読める。

 “一見博識と思われる装飾に惑わされてはいけないよ。(中略)多数の音節を用いる長たらしい専門語句や外来語は、たいていが自分の無知を蔽い隠すための装飾に過ぎない。” (小森健太朗『グルジェフの残影』文春文庫より、ピョートル・デミアノヴィチ・ウスペンスキーの台詞)

 こうしたことよりも、ピョートル・デミアノヴィチが賞賛するのは、「自分の経験に立脚した、真摯で有意義な問い」である。

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