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ローマ帝国の軍隊はなぜ最強だったのか

こんにちは。こんばんは。
RAPSCALLI😊N です。

 イタリアの小さな都市国家から、地中海全域の支配者にまで上り詰め、高度な文化、芸術を築き開けたローマ。その栄光は、ローマ帝国が滅亡した後も1000年以上に渡りヨーロッパの国家とその指導者たちを魅惑し、憧れの存在となりました。また、ローマの作った法典や建築は今の現代社会にも非常に大きな影響を与えています。

 「ローマは一日にしてならず」という格言もあるように、ローマは何世紀もかけて巨大帝国に成長しましたが、もちろんその背景には強力な軍隊の存在がありました。

 ローマ軍の軍隊の中核をなしたのが「レギオ(レギオン)」。

ローマ兵(レギオ)の典型的な姿

 彼らなしではローマはここまで成長しなかったと思われるくらい、数々の戦で逆境をいくつも乗り越えて勝利していきました。

 今回は、なぜこのレギオがここまで強かったのかについて、考えてみたいと思います。

※本記事で紹介する内容は筆者(RAPSCALLI😊N)が大学のレポートとして作成した内容に基づきます。個人的見解や考察に基づく箇所もありますのでご了承ください。



なぜレギオは強かったのか

 ローマ帝国のレギオが戦場において有能であった理由として、訓練や武具が極めて先進的だったことが挙げられています。本レポートではこれと異なる視点からレギオの強さの理由を考え、レギオの中で兵士が密接な絆で結ばれていたこと、ウィルトゥスという美徳観念や、神への信仰や宗教儀式、厳しい規律に縛られていたことを根拠に、不利な戦闘においても敗走せずに戦い続けることができた点がレギオの強さに繋がったと推論しました。

はじめに

 初期の帝政ローマにおいて、レギオは数々の大規模な戦争に参加し、ローマの勢力拡大・維持に著しく貢献しました。レギオを前近代における史上最強の軍隊と呼んでも誇張ではないほど、レギオは優秀な軍隊組織であったのですが、本レポートではその理由を、既に知られている訓練の精度や武器・鎧の先進性ではなく、ローマ兵の精神面に着目して考察しました。

定義

レギオ

 レギオはローマ帝国の主力の常備軍組織でした。本論文で扱うレギオは、主にアウグストゥスの時代から五賢帝の時代の終焉までのものを扱います。レギオの具体的な説明は「3.レギオの構成・特徴」において後述します。

共同体

 広辞苑によると、共同体は「血縁的・地縁的あるいは感情的なつながりや所有を基盤とする人間の共同生活の様式」と定義されています。以下では共同体という単語を特に感情的な面を重視して使用します。

レギオの構成・特徴

レギオの編成

 レギオを構成する最小の部隊はコントゥベルニウムでした。コントゥベルニウムは8人の軍団兵(コントゥベルニア)から成り、戦時においても平時においても寝食を共にしました。一つのコントゥベルニウムには2名の補助兵と1匹のラバが付き添い、加えて2名の奴隷が共に行動していたという説もあります。

 このコントゥベルニウムを10個集めた部隊をケントゥリア(百人隊)と呼びます。そして、ケントゥリアを指揮し、兵士の生活を管理し、兵士の懲戒権を保持していたのが百人隊長であり、任官は皇帝の認可を要しました。

 ケントゥリアを六つ集めた部隊をコホルス(大隊)と呼び、一つのレギオは10のコホルスを有しました。加えて、120騎の騎兵もおり、一つのレギオは5240人の兵員で編成されました。アウグストゥスの時代になるとローマ軍は常備軍化され、レギオに属するローマ兵は給与を与えられ、現役20年予備役5年勤務をする職業軍人となりました。

共同体の入れ子構造としてのレギオ

 以上からわかるように、同じコントゥベルニウムの兵隊同士は、何年にもわたって共に生活をすることがよくあり、戦の有無に関わらず利害を共にする密接な関係にあったと推察できます。その上で、戦場においてはケントゥリア、コホルス、そしてレギオという纏まりで戦い、同じ場所で生活しました。

 同時代の他国の軍隊と比べると、漢帝国には常備軍はあったものの、それは実質的には一年交代の農民軍であり、アケサケス朝パルティアの軍隊は基本的に家臣や奴隷を寄せ集めた大貴族の軍隊を更に寄せ集めて形成され、ローマ帝国ほど大規模で質の高い常備軍を持つ国家は古代において異例でした。

 以上より、他国の軍と比べればローマ兵が同じ集団で過ごす時間は極めて長く、レギオの編成を共同体の入れ子構造と考えて良いでしょう。

ローマ兵の精神性

 ローマ人はウィルトゥスという徳目を非常に大切にしていました。具体的には「軍功、特に敵を何人殺してその装備を戦利品としたか、戦場で味方を何人助けたか、体に名誉の傷をいくつ持っているか」などが重要視されました。ウィルトゥスを持つとされたローマ市民は元老院議員に選ばれたり、無罪になったりするなど、「時に超法規的な力を」持ちました。ウィルトゥスの反対の概念が恥(プデンス)であり、恥を受けることは死に値する屈辱でありました。

 レギオ内の規律を破った者には処罰が下され、兵士は再審権を無視されて上官の処罰に従わざるを得ませんでした。処罰の軽重は罪によって異なり、死刑や罰金、笞打ちなど種類は様々でありました。特に百人隊長は懲戒権を持つため、兵士から恐れられていました。

 このように、戦時において逃亡などの不名誉な行いを強く抑制するような価値観や厳しい刑罰がローマ帝国の軍事的共同体を取り巻いていたのです。

レギオと宗教

 ローマ兵が信仰する宗教には公的宗教と個人的宗教が存在しました。公的には、ミネルウァ、ユーノー、ユーピテルの三神が特に重要視され、軍隊の中でも毎年祭りで祝ったと考えられています。宗教的儀式の際には礼拝所に向かって行進し、このことによって共同体への帰属意識も強まりました。このような信仰に関連して、ローマ兵は軍への入隊時、及び新司令官の着任時に、命令に背くことや敵前逃亡をすることなどの不名誉な行いはしないと神々に宣誓しました。

 個人的宗教は多様であり、レギオの兵隊はレギオ内の宗教儀式に参加さえすれば、それ以外の宗教的な制限はほとんど存在しませんでした。なお、本レポートで扱っている時代にキリスト教の軍事への影響はほぼ皆無であり、帝政後期に入っても軽微でありました。キリスト信者が兵役を拒否して殉教した事例もありましたが、兵士として働いたキリスト教徒もおり、反応は様々であり、キリスト教が容認された後も宗教的儀式がキリスト教の形式に変わっただけでした。

 このように宗教はローマ兵のレギオ内の結束力や忠誠心を高めたと考えられますが、一方でその宗教が何であったかはさほど大きな意味を持たなかったと考えられます。

戦闘におけるローマ軍の辛抱強さ

 圧倒的に不利な状況下でも戦い続けたローマ軍の例がカエサルのガリア戦記において確認されます。一つはローマ軍が森の中で敵兵に奇襲された時で、ローマ軍は司令官を次々と討ち取られながら戦い続け、最終的に残った兵士は刺し違えて果てました。もう一つは、孤立した三百人のローマ兵がガリアの敵に包囲され、寝る間を与えられず、矢玉が尽き果てた時もローマ兵は退却することなく戦い続け、矢を持ったまま戦い続けました。この戦いはローマ兵の精神力を如実に示しているといえます。

結論

 ローマ軍が古代の戦場において最も有能な軍隊であった理由として、訓練の精度や武具が非常に先進的だったことはよく知られていますが、彼らの強さを支えた要素はそれだけではありません。レギオは共同体の入れ子構造を持っており、レギオ内の兵士同士の精神的なつながりが強く、それが忠誠心の源泉となっていました。さらに、ローマ人が持っていたウィルトゥスの美徳や、宗教儀式が共同体の結束を一層強め、ローマ兵が士気を高く保つ要因となりました。結果的に、レギオの兵士たちは戦場において非常に高い粘り強さを発揮することができたのです。

参考文献

1.井上文則「軍と兵士のローマ帝国」岩波文庫。2023年。ISBN 9784004319672。

2.Gregory.S.Aldrete「The Roman Army: Its Evolution and Growth」Wondrium Daily.2020.

3.新村出編「広辞苑」岩波文庫。2018年。ISBN 9784000801317。

4.N.S.Gill「The Roman Army of the Roman Republic」ThoughtCo.2018.

5.長田龍太「古代ローマ軍団(レギオン)の装備と戦法 = The ancient Rome, the equipment & tactics of the Roman legion」新紀元社。2019年。ISBN 9784775316467。

6.エイドリアン・ゴールズワーシー著、池田裕, 古畑正富, 池田太郎訳、「古代ローマ軍団大百科」東洋書林。2005年。ISBN 4887217056。

7.ガイウス・ユリウス・カエサル著、石垣憲一訳、「ガリア戦記」平凡社。2009年。ISBN 9784582766646。

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