なんでもなんとなくできてしまう人こそ、努力が必要ではなかろうか
私はおそらく、大抵のことはやれと言われれば、そこそこの成果を上げるまで頑張ってしまう。自分自身が器用である、といううわけではおそらくない。私はただそこそこできるようになるまで言われたことをやれてしまう、という生物学的な性質のようにしみついているものだと思っている。
私は幼いときから、相手がどのように思っているのかを強く感じ取りやすかった。相手が言葉に出していなくても、「本当は違うことをやってほしいんだろうな」と思うことが多々あった。ただ、そこから本当にどうしてほしいかは、相手の気持ちの想像、様々な事情を加味して察したり、あるいは本音を引き出すかどちらかだろう。(私は本音を引き出せるほどのトークスキルはさほど発揮したことはないが…)
そうなると、常に相手の期限ばかりが気になってしまう。特に機嫌を損ねやすい人に対してである。親、教師、管理者などが該当するだろう。その人の感情が安定している、という保証がなければ安心していられないのである。
私自身、深刻な運動不足、運動音痴であった。しかし、学校生活の中で、厳しい体育教師に育てられたり、できる限り期待にこたえられるように日々の体育の授業、それ以外にも日々の力仕事の手伝いなど、積極的に体を動かした結果、持久走だけは一般的な運動部経験者並みに体力がついたのである。
勉強についても同様である。頭脳に関しては、おそらく「神童」と言われる部類に所属していたと思われるくらいに、漢字の習得も算数の計算も小学校に上がる前からできていた記憶だが、授業がいの勉強無しで行けるレベルには限界がある。そこを超えるきっかけになったのは、やはりある化学教師のスパルタ授業、厳しい言葉によるものではないかと思う。さらに私は期待をかけられすぎてしまい、センター試験本番の化学で満点をとれなくて苦言を漏らされたほどである。
今でも、与えられた仕事に対して、相手の機嫌や管理者の評価ばかり気にして、言われたことをただこなしていくだけであることに最近気が付いたのである。そして、ここ数年では、他人に振り回され続けて、自分の限界に気づけずに体を壊すことも増えた。この生き方の限界を感じ始めたのである。
今の自分ができるたくさんのこと、それらは確実に、今までの周囲の環境がもたらした成果である。そこは間違いないが、その今までの修行というのは、純粋な意味での努力ではないように感じる。自分の意志というものを立てていないのである。なんでもできる、という人は、同じようなことが当てはまるかもしれない。一定の努力ができてしまうのであるが、なかなかその先へ行かない。
今後の自分がやっていかなければいけないのは、自分の意思に沿って、周囲との折り合いをつけられるようにすることである。目の前の問題に対して、自分のやり方、自分の意志をはっきりと提示したうえで、折り合いをつけていく必要がある。
これまでの何でも屋の姿勢は改め、自分がやりたいこと、自分が助けたい人、やりたい方法をしっかりさせていく、志を立てた姿勢を作らなければならないと思った。