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聖ツィタ

Santa Zita di Lucca

王女、王妃が宮廷のパンを持ち出して貧しい人たちに施し、咎められた際にパンが薔薇に代わっていたという中世キリスト教の美談がある。
家が貧しいために12歳で奉公に出され、貧者のために主家からパンを持ち出し、叱責されるとパンが花と草に変わったという奇跡が「ルッカ(Lucca)の聖ツィタ(Santa Zita)」にも伝わっている。
聖ツィタの記念日である4月27日の前後に、ルッカで祝祭が開かれる。

ルッカは、イタリア中部の斜塔で有名なピサ(Pisa)から北に10キロメートルほどに位置する。
町の起源は古代ローマ時代に遡るが、ルッカは13世紀から14世紀に繊維工業で繁栄、発達した。その頃、裕福な市民階級、貴族階級も誕生し、聖ツィタが奉公したファティネッリ(Fatenelli)家も絹の交易で財を成し、ルッカの名士となった。
聖ツィタの祝祭は、ルッカの最初の司教、聖フレディアーノ(San Frediano)に奉献した6世紀に起源を遡る教会と近くの古代の円形競技場跡広場で開催される。

聖ツィタの遺体が顕示されている聖フレディアーノ教会(Bsilica di San Frediano)では記念日のミサが執り行われる。
奇跡的に腐敗することなくミイラ化した聖ツィタの遺骸が、聖女の記念日を挟んで一週間だけ教会の入り口に近い身廊に顕示され、信者たちが祈りを捧げる。

信者たちは白い水仙の花を買い求め、教会の聖ツィタのガラス張りの棺に捧げる。白い水仙の花を自宅に持ち帰り、水仙を飾る人も多い。

敬虔で慈悲深い聖ツィタは生前から名望がきわめて高く、死後直ぐに聖ツィタ崇拝が始まった。奉公先のファティネッリ家の祭壇が聖フレディアーノ教会にあったことから、聖ツィタの遺骸はファティネリ家の祭壇下に葬られていた。しかし聖ツィタの崇拝が始まり、巡礼者が多く訪れるようになったことから、1509年に教会内に聖ツィタ礼拝堂が独自に築かれ、その祭壇下に聖ツィタの遺体が顕示されるようになった。

聖ツィタの記念日を挟んで前後一週間、花市が開催される。
教会から100メートルほどのところにある古代の円形競技場(Anfiteatro)跡広場が花市の会場となる。

ルッカ近郊の園芸農家が参加する花市は、フラワー・スタンドの展示陳列のコンテストにもなっている。
趣向を凝らした飾り付けが美しいフラワー・スタンドが表彰される。

ルッカのあるトスカーナ北部は海岸線に近いこともあり、海の幸、山の幸が豊富でグルメの地域でもある。
円形競技場広場には、常時テラス・レストランが立ち並ぶ。花市の期間中は朝から夜まで多くのグルメ目的の客で賑わう。

リストランテ・ペペローザ(Rsitarante Peperosa)」で前菜の海鮮料理「アンティパスト・フルッティ・ディ・マーレ(Antipasti Frutti di Mare)」を注文。
新鮮な魚貝類がこれだけ盛りだくさんの前菜はイタリアでも珍しい。
分量が多いので、メイン料理にすることも可能だった。

トスカーナ料理の専門店「リストランテ・サン・ジョルジョ(Ristrante San Giorgio)」の山の幸の前菜。
前菜の量があまりにも多いので、パスタは遠慮してメイン料理に「コートレット(côtelette=カツレツ)風骨抜き豚肉」を食べた。

お勧めデザートを頼んだら、トスカーナ名物のアーモンド・クッキー「カントゥッチ(Cantucci)」と、甘くてアルコール度数が高い(30度前後)リキュール、「アマレット(Amaretto)」が来た。カントゥッチアマレットに浸して食べると、満腹のお腹には、食後酒としても消化作用があるとか?

隣席の人たちをみると、前菜、パスタ、メインに大盛りサラダ、それからデザート!
イタリア人の飽食ぶりには改めて感服した。


聖人録

聖ツィタ

Santa ZITA di Lucca

ツィタは、イタリア中部トスカーナ地方北西部のルッカから約15キロメートル離れた山村ポントレモリ(Pontremoli)で1212年頃生まれた。
12歳の時に故郷からルッカの市場に果物や野菜を売りに来ていたツィタは、絹の商いで成功したルッカファティネッリ家の目にとまり、メイドとして雇われた。
奉公先から貰う少額の報酬の中から、貧しいながらも三分の一を両親に送り、三分の一は貧者へ施し、残りの三分の一を自分に残すような健気な少女であった。
山村の貧しい農家の出身であったツィタであったが、奉公先でも信仰に篤い敬虔な生活を送っていた。
貧者へ与えるために奉公先のファルネッリ家の残ったパンをエプロンに入れて出たところ、意地悪な同僚に主人に告げ口をされ、主人がツィタにエプロンの中身を尋ねたところ、ツィタは中には草花しかありませんと答えたという。果たしてツィタが開けたエプロンの中から草と花が現れた。ツィタは自らの食事も節約し貧者に与えていた。トスカーナ地方が飢饉に襲われた際には、まずは自分の食料を貧者に与え、さらにご主人に願い、ご主人の食料まで貧者に与えていた。
ツィタは家族より早く起きて、毎朝仕事を始める前にミサに与り、誠実で勤勉に働いたため、ファティネッリ家では家事全般をツィタに任せるようになった。ファティネッリ家では貧しいホームレスの女性を世話をするためにツィタに館の近くに部屋を与えた。

1890年から2000年までニューヨークのマンハッタンにあった身寄りのない女性のための「聖チタ・ホーム(St. Zita's Home for Friendless Women)」は、ルッカの聖ツィタに由来する。
ツィタファティネッリ家で48年間奉公して、1278年に帰天した。帰天したツィタの遺骸は聖フレディアーノ教会ファティネッリ家の祭壇下に埋葬された。
ツィタの事を生存時から約半世紀後に同じトスカーナ地方の大文豪ダンテが「神曲」の中にも書いている。
当時ツィタの名声がいかに広く轟いていたかが分かる。
ルネサンス期頃からイタリア全土でツィタへの崇敬が篤くなり、1696年、教皇イノケンティウス九世(Papa Innocenzo XII)により列聖された。
聖ツィタは、家政婦、料理人、ウェイトレス、花屋、ルッカ市の守護聖人。



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