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松本清張「相模国愛甲郡中津村」と「不運な名前」

 松本清張の中編「不運な名前」は文春文庫『疑惑』に収録されている。内容は1878年頃から起こった藤田組贋札がんさつ事件の犯人とされ1882年に逮捕された熊坂長庵は本当に犯人だったのかどうかという冤罪の可能性を問うものである(長庵は1886年に獄死している。享年41~42歳)。

 熊坂長庵といえば、講談などで有名な平安時代の野盗熊坂長範ちょうはんの名とまぎらわしい。
 熊坂長範は京都の豪商が陸奥みちのくに下るとき、その持っていた大金を奪おうとして下手を大勢ひきいて美濃国青墓みののくにあおはかの宿に押し入り、豪商一行を殺傷して財物をかすめた。が、この大賊も牛若丸のためについに斬り殺されたというのである。幕末には芝居にもなって、明治のころには熊坂長範の話がひろく知られていた。
 が、熊坂長庵は、明治十六年十月二十四日、伴正臣裁判長の判決書にもあるとおり、相模国さがみのくに愛甲郡中津村十七番地に本籍をもつ実在の人物で、十五年に捕まったときには数え年三十九歳であった。判決書には「平民画工」とあるけれど、じつは中津村小学校の初代校長であった。

『疑惑』p.137

 しかし実は清張は藤田組贋札事件に関しては既に「相模国愛甲郡中津村」という短編を1963年1月号の『婦人公論増刊号』で発表している(『奇妙な被告 松本清張傑作短篇選』中公文庫 2009.8.25. に収録されている)。
「相模国愛甲郡中津村」においては主人公(清張?)が神田の古書店でたまたま知り合った老人と言葉を交わすようになり、やがてその老人は藤田組贋札事件で犯人とされた熊坂長庵の曾孫だと名乗り、熊坂長庵の本名は中村久太郎だとして、実際に贋札事件の影の首謀者である大隈重信から届いた大隈独特の乱筆の手紙を20通以上も示したのである(オチは書かないでおく)。
 それでは何故清張は1981年2月号の『オール讀物』に同じ題材で小説を書くことになったのか勘案するならば、18年経った間にさらに新たな資料が見つかったために、改めて世に問う形になったのではないかと思う。実際に主人公でノンフィクション作家の安田平太郎の「不運な名前」にまつわる部分は上に引用したモノローグだけで、後は歴史書や資料を駆使した検証に終始している。そのためだと思うが、ミステリー小説として完成度が高いのは「不運な名前」よりも「相模国愛甲郡中津村」の方だと思うのである。