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ポール・オースター『幽霊たち』とヌーヴォー・ロマン

 フランスで1960年代頃から現れたヌーヴォー・ロマン(Nouveau roman)は学生運動と連動するような形で広まっていき、クロード・モーリアック(Claude Mauriac)が1959年に上梓した『晩餐会(Le Dîner en ville)』がメディシス賞を獲った時には父親のフランソワ・モーリアック(François Mauriac)は過去の人になると思われたものの、「革命」と若さとは切り離すことはできず、学生運動の終焉と合わせたようにヌーヴォー・ロマンは失速し、フランソワ・モーリアックの代表作である『愛の砂漠(Le Désert de l'amour)』(1925年)や『テレーズ・デスケルウ(Thérèse Desqueyroux)』(1927年)のような「古典」は古典として読まれ続けているのであるが、それはフランスでの話であって日本においては二人とも忘れ去られている。

 ポール・オースターについて話をするつもりが、何故フランスのヌーヴォー・ロマンの話になってしまったかというと、例えば、1986年に上梓された『幽霊たち(Ghosts)』の冒頭を『The New York Trilogy』(Penguin Books 1990)から引用してみる。

 First of all there is blue. Later there is White, and then there is Black, and before the beginning there is Brown. Brown broke him in, Brown taught him the ropes, and when Brown grew old, Blue took over. That is how it begins. The place is New York, the time is the present, and neither one will ever change. Blue goes to his office every day and sit at his desk, waiting for something to happen. For a long time nothing does, and then a man named White walks through the door, and that is how it begins. (p.161)

 次に柴田元幸訳を新潮文庫から引用してみる。

 まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、こつを伝授し、ブラウンが年老いたとき、ブルーがあとを継いだのだ。物語はそのようにしてはじまる。舞台はニューヨーク、時代は現代、この二点は最後まで変わらない。ブルーは毎日事務所へ行き、デスクの前にすわって、何かが起きるのを待つ。長いあいだ何も起こらない。やがてホワイトという名の男がドアを開けて入ってくる。物語はそのようにしてはじまる。(p.5)

 次に拙訳を試みてみるが、既訳とほぼ変わらない。

 最初にブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、始まる前にはブラウンもいる。ブラウンはブルーに仕事を教え、こつも教え、ブラウンが年老いた時には、ブルーが引き継いだ。そのようにして始まる。場所はニューヨーク、時代は現代、どちらとも変わることはない。ブルーは毎日彼の事務所に行くと自分の机の前に座って何かが起きることを待っている。長い間何も起こらないのだが、ホワイトという名前の男がドアから歩いて入ってきて、このようにして始まる。

 柴田の訳には「物語」を取り繕うとする訳者の意志を感じるのだが、個人的には冒頭は物語を始めたいような始めたくないようなオースターの心の葛藤の中でやっぱり始めてしまった「投げやり」を感じるのであるが、拙訳でそれが上手く表れているか疑問は残る。

 ポール・オースターには「推理小説」を書くことに「照れ」を感じる。既に数多あまたの優れた推理小説が存在する中、いまさら改めて新作を書くことに対する「照れ」こそがフランスのヌーヴォー・ロマンの誕生のきっかけでもあったはずなのである。しかしフランスのヌーヴォー・ロマンは凝りに凝った文体がソリッド過ぎて読みにくいのに対して、「内省」に向かったオースターの「推理小説」は極めてリーダブルで「ヌーヴォー・ロマン」の代わりに80年代を迎えてSF要素も交えた「ポストモダン小説」として今後も読まれ続けられると思う。因みにオースターは『リヴァイアサン(Leviathan)』で1993年にメディシス賞を獲っている。