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谷崎潤一郎「ドリス」について

 谷崎潤一郎が1936年に「改造」で発表し、翌年創元社から刊行した『猫と庄造と二人のをんな』に関しては隠れた名作として読まれ続けているようで、中公文庫から2013年に上梓されている。
 既に議論し尽くされている通り、主人公の石井庄造を巡る妻の福子と前妻の品子の諍いなのだが、品子は庄造の母親のおりんと折り合いが悪く、家から追い出された感じであり、庄造が嫌いというわけではないから厄介なのである。
 ところがそのうちに庄造の家で飼われている雌猫のリリーがいつの間にか庄造に成り代わって主人公として福子と品子に追われる立場になってしまうというアイロニーが描かれているのであるが、ここでは『猫と庄造と二人のをんな』よりも同書に附録として収められている「ドリス」について書いてみたい。

 「ドリス」は「ドリスと云う美女、並びに同じ名の波斯猫ペルシアねこのこと」という副題を持つ、1927年に「苦楽」初出の未完の短篇であるが、ドリスという名の飼い猫をあやしながら、主人公が目にする、主に美容に関する広告文や説明文がそのまま引用されている。
 気になったのは最後の文章である。主人公がロンドンから取り寄せた1921年版の「家庭的愛玩猫」という珍書に書かれている文章だから、原文は英語で(日本語に訳されて)書かれているていである。

猫の常用薬(コムプリート・キヤツト・キューア)と云うのがある。猫の咳止め(コムプリート・キヤツト・カツフ・キューア)と云うのもある。その他コムプリート・キューラテイヴ・キヤツト・クリーム、コムプリート・キヤツト・キヤンカー・キューア、コムプリート・キヤツト・コム、……此れでは「クラシツク」の広告も三舎を避ける。今に猫の整鼻器だの、最新式睫毛美化法だのが出来るかもしれない。……

『猫と庄造と二人のをんな』p.160

 「クラシツク」とは「モウション・ピクチュア・クラシツク(Motion Picture Classic)」という1915年9月から1931年3月まで出版されていたアメリカの月刊映画雑誌で、「三舎を避ける」とは相手を怖れてしりごみすることである。
 カタカナで書かれた英語を検討してみるならば、咳止めを「カツフ・キューア」としているが、英語で綴るならば「cough's cure」であろうから、「カツフ」ではなくて「カフツ」の間違いだと思われる。谷崎が間違ったのか誤植なのかは分からない。
 「コムプリート・キヤツト・キヤンカー・キューア」は猫の慢性外耳炎(canker)の治療薬であり、「コムプリート・キヤツト・コム」は猫用の櫛(comb)だと思われる。