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【随想】太宰治『フォスフォレッセンス』
私は、この世の中に生きている。しかし、それは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。
私の夢は現実とつながり、現実は夢とつながっているとはいうものの、その空気が、やはり全く違っている。夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。
難解だ。
自分を見つめる「誰か」の視点に居るとして、見られている自分(その筈である)が何を見ているのか分からないのなら、その「誰か」こそが自分であって、自分(と思しき人物)は、一体何者なのか、という問題が発生する。
しかし自分(でなくてはならない人物)を自分だと思える「誰か」が自分ではない、ということが有り得るのだろうか。自分を自分だと思えるのは自分だけではないのか。自分を自分だと思う自分が本物の自分なのか。それは誰でどこにいるのか。どうしてそう思うのか。
幽体になりそうだ。
魂を、自分に還そう。
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