【随想】宮沢賢治『ツェねずみ』
付喪神、普通は心を持たぬ無機物が、長い年月を経て精霊と化し心を持つようになる。心を込めて物に接していると自分の意識が物に乗り移る。まるで生物に接するように、労ったり、声を掛けたり、触れたりしている内に、自分が物を思っているのか、物が自分を思っているのか、有機生命体と無機物の差異が分からなくなり、とうとう、同一視するようになる。強い思いは自己暗示を生み、現実と妄想の壁を突破する。端から見れば狂人の筈だが、皆が等しく同時に狂うこともある。そして人はいつでも常なるもの多数なるものを正常と見做す。狂奔の成せる技、ヒステリー、パニック、集団催眠。全てが異常であるとき、最早異常は異常ではなく正常となる。物が口をきく訳が無い。それは当たり前だが、当たり前の意味がひっくり返ったならば、物が口をきくことも有り得てしまう。付喪神は単なる愛護節用精神のマスコットではない。もったいないお化けではない。擬人化は楽しい遊びであり、世界を解する上での有用な道具でもある。人でないものを人の近くに寄せ、人の匂いを付けて人と見做す。さすれば如何に難解不可思議な現象であろうと、するりと心に滑り込ませることができる。言葉を知らぬ子供は極めて自然にそれを為す、それが唯一の理解方法だから。理屈が邪魔な時もある。理屈は、所詮方便に過ぎない。言葉、感覚、それらを超え、見えているものを疑い、見えないものを信じる。即ち、純粋な直感、童心。しかし、直感を言葉以外の形にするには、どうしたらいいのだろう。
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