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【随想】宮沢賢治『なめとこ山の熊』

 なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。

宮沢賢治『なめとこ山の熊』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこが丁度銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が云った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ。」
 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれはねえ、ひきざくらの花。」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ。」
「いいえ、お前まだ見たことありません。」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの。」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう。」
「そうだろうか。」子熊はとぼけたように答えました。

同上

「お前は何がほしくておれを殺すんだ。」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れると云うのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでいいような気がするよ。」
「もう二年ばかり待って呉れ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから。」

同上

「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった。」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
 とにかくそれから三日目の晩だった。まるで氷の玉のような月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参の星が緑や橙にちらちらして呼吸をするように見えた。
 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴え冴えして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。

同上

 ある一つの芽から伸びた柔らかな草はすぐに堅い木となり、より高くより太く成長を続けやがてその先端に無数の枝葉を茂らせるに至った。今やもう彼の顔は見えないけれど、きっと似ても似つかぬ顔に変わってしまったのだろうけれど、それでも同じ中心を持つ我等はその生命を共有していると信じる。唯一の大地、根はふわふわと頼りなくしかし複雑に食い込み水流はとぎれることがない。生きることが生きていることを証明する。並び立つ無限の蒼炎は消えては点る、消えては点る。完全になろうとして夢は醒める。半分を自覚して悪魔に引導を渡す。螺旋は動いているようで本当はずっとそこに居るのだと、風が囁いて教えてくれた。明滅する全ての現象に賛歌を捧げる。ありがとう、だから生きるのです、だから死ぬのです、そこに居てくれてありがとう。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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