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【随想】宮沢賢治『月夜のでんしんばしら』

 ところがそのつぎが大へんです。
 さっきから線路の左がわで、ぐゎあん、ぐゎあんとうなっていたでんしんばしらの列が大威張りで一ぺんに北のほうへ歩きだしました。みんな六つの瀬戸もののエボレットを飾り、てっぺんにはりがねの槍をつけた亜鉛のしゃっぽをかぶって、片脚でひょいひょいやって行くのです。そしていかにも恭一をばかにしたように、じろじろ横めでみて通りすぎます。
 うなりもだんだん高くなって、いまはいかにも昔ふうの立派な軍歌に変ってしまいました。
   「ドッテテドッテテ、ドッテテド、
    でんしんばしらのぐんたいは
    はやさせかいにたぐいなし
    ドッテテドッテテ、ドッテテド
    でんしんばしらのぐんたいは
    きりつせかいにならびなし。」

宮沢賢治『月夜のでんしんばしら』(童話集『注文の多い料理店』)新潮社,1990

 大勢で列と動きを揃えて行進する、やってみるとこれが意外と難しい。歩き方は人それぞれ、身長、体重、骨格、筋力、バランス、歩き癖、視界、音の聞こえ方、風の受け方など、歩くという行為には様々な要素が絡んでいる。それを一つに統一しようというのだから難しい。歩幅が合わない、リズムが合わない、手の振りが合わない、視線が合わない、細かく見ると他人と何もかも違う、歩くという動作一つとってさえ。それを知る意味でも、誰もが本格的な行進練習を一度は経験すべきだ。なぜ軍隊が行進をするのかと言えば、一つには示威がある。よく統制された行進はそれだけでその軍の士気の高さと訓練の厳しさ、練度の高さ、つまりは強さを証明する。他の軍隊も同じような訓練をしている訳だから、余計にそれが分かる。見る人が見れば分かる、というやつだ。確かに行進は歩くだけだ、頭を使わない、誰でも出来る。だが大勢が揃った動きをするためには膨大な練習を要する。考えがバラバラでは決して揃わない、故に行進練習は集団の結束を高めるのにうってつけなのだ。学級崩壊のようなことは、要するに他者に対する無理解が原因だ。互いが互いのことを気遣い、理解し合おうとするのなら、集団は自ずから洗練されていく。個性などという存在自体有るのか無いのか曖昧で不確かなものを磨くより、集団の一員として周りに合わせて生きて行く調整術の方が人生ではずっと実用的だ。人間一匹なんて別に大したものではない。その自覚が何より先にあるべき、それがなきゃ自立なんて出来ないのだから。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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