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【随想】宮沢賢治『黄いろのトマト』

 四羽の美しい蜂雀さえまるでぼんやり見えたのです。私はとうとう泣きだしました。
 なぜって第一あの美しい蜂雀がたった今まできれいな銀の糸のような声で私と話をしていたのに俄かに硬く死んだようになってその眼もすっかり黒い硝子玉か何かになってしまいいつまでたっても四十雀ばかり見ているのです。おまけに一体それさえほんとうに見ているのかただ眼がそっちへ向いてるように見えるのか少しもわからないのでしょう。それにまたあんなかあいらしい日に焼けたペムペルとネリの兄妹が何か大へんかあいそうな目になったというのですものどうして泣かないでいられましょう。もう私はその為ならば一週間でも泣けたのです。

宮沢賢治『黄いろのトマト』(童話集『新編 銀河鉄道の夜』)新潮社,1989

 見立て、ままごと、演劇、何かを何かに見立て想像世界を作り上げる作業は子供大人に関係なく人を惹き付ける普遍的な魅力がある。まだ自意識も曖昧な幼い子供が、人形を相手に、時には人形さえ要さず完全に架空の想像上の何者かと話していることがあるが、あれもまた見立てである。自分の意識の中で自分を意識することなく自分と対面して話し得る存在を作り上げるというのは、他者というものを理屈ではなく直観で、それゆえ完璧に本質を突いた形で理解していなければできない芸当である。それこそ芸術家が生涯を費やして追い求める究極の境地だが、それは無知で無邪気な子供だからこそ為し得ること、また長じるにつれてその能力を失ってしまうというのは何とも皮肉なものである。芸術とは意識的に無意識の深層に潜る術なのかも知れない。山より大きい巨人、空に浮かぶ城、不思議な魔法を使う老婆、人の言葉を話す鳥のおもちゃも、子供にとっては親や友達や飼い犬と同様に、世界を構成する確かな存在なのである。そんなものは存在しないというのは、知ある者の都合の良い決め付けに過ぎない。そうでなければ自分の見ている信じている世界の根本が揺らいでしまう、その恐怖から逃れる為の仮定にして前提なのだ。そうした恐怖を持たぬ者にとってはどんな荒唐無稽なものも等しく一つの存在であり、自由に存在が許されている彼の世界はより自由で広大である。見立ては童心に近付く最も有効な手段の一つである。役者を含め芸術家、それも本物の芸術家は誰も彼も見事に人格が破綻しているがそれも無理からぬことである。彼らは大人として認められる為に身に付けた教養や振る舞いを、子供の心を取り戻すそのために自ら破壊しているのだから。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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