膿んだ日常に取り残されるように旅路に就いた。狭い海峡に架かる巨大な吊り橋を渡り、そこは大きな島だったが、大陸と呼んでもよいだろう。彷徨する詩人は、どう呼ばれるかを気にする甲斐性も無い。顔の左半分が妙に明るい。きっと海に面しているからだろう。顔の右半分はしっとりとして、どこか霊的だ。初めて訪れた土地を、何もかも知っていた。どうしても、懐かしい。
商売気の無い住宅街、数少ない信号機の周囲は少しだけ金の匂いがしている。少しだけ、今に媚びているが、疲れたような、諦めたような匂いだ。並んでいる本のどれよりも古めかしい古書店を覗くと、軒先に積まれた鉄道やら山岳やら様々の写真集の上に、著者名もタイトルもない唯のハードカバーが無造作に置かれてある。たとえ地味でも明らかに異質なものは、どんな派手な装幀よりも目を引く。思わず手に取り数ページめくってみると、これは日記のようである。それも、それを今めくっている男の日記である。いつ書いたものだろう、記憶に無い。そして何より、ここにあるべき理由が無い。狂ったのだろうか。誰かを自分だと思い込んでいるのだろうか。それとも、他人と自分の区別もつかない程の、阿呆だったのだろうか。
目と鼻の無い店主が出てきて、それを持って行けと言った。ありがとう、と答え、無題のハードカバーを手に取り歩き出した。さあ、何処へ行こう。海よりも、山に行きたい。山の物の怪なら、きっとこの心境を言葉にしてくれる気がする。生まれ落ちて、彷徨い続けている。誰よりも静かに狂った詩人の世界は、標高千五百メートルの森のようだった。